北条政子~情熱と孤愁の尼将軍(前編)【にっぽん歴史夜話】
文/砂原浩太朗(小説家) 北条政子(1157~1225)の名は、日本史上にあらわれる女性のうちでも、群を抜いて知られている。多くの人が、彼女の生涯について何らかのイメージを抱いているだろう。女性の生き方にほとんど選択肢がなかった中世、みずからの情熱によって歴史を動かしたといえるのが政子なのである。「尼将軍」とさえ呼ばれた稀有な生涯をたどる。
歴史を動かした情熱
政子は伊豆の豪族・北条時政の長女である。幼いころのことはほぼ伝わっていないが、有名なのは「夢買い」のエピソードだろう。ある日、政子の妹がふしぎな夢を見た。高い峰にのぼり、月と太陽を袂におさめたうえ、橘が三つなった枝を頭上にかざしたという。政子はこれを吉夢と悟ったものの、「それは悪しき夢なれど、ひとに転じれば難を逃れることができよう」と説いて、その夢を買い取った。 余談ながら、このとき妹が「でも、そうするとお姉さまに災いが降りかかるのでは」と恐れたところ、「買い取った方にまでは、災厄がおよばぬ」と返している。自分がついた嘘ながら、とっさに細やかな設定までこしらえるところが面白い。これは鎌倉後期以降に成立した「曾我物語」にある話で、むろん後年の躍進を踏まえた創作だろうが、彼女の胆力や才覚が余すところなく表現されており、よくできた挿話と思える。 平治の乱(1159)で平氏にやぶれた源氏の御曹司・源頼朝(1147~99)がこの地に流されたことで、政子の運命は変わる。流人頼朝と恋に落ちた彼女は、父・時政の命じる相手との婚儀を嫌って逃げ出し、想い人のもとへ走ったのだった。政子21歳、頼朝31歳のときである。 この振る舞い自体ドラマチックではあるが、時代を考えれば、その破格さは計りしれない。頼朝は政子以前、やはり伊豆の豪族である伊東氏の娘と通じ、子まで儲けていたが、平氏の意をおそれた父によって仲を引き裂かれ、子の命も奪われている。むごい話だが、当時はこれがふつうで、親の意を撥ねのけ恋をつらぬいた政子が稀有というほかない。 時政がひそかに頼朝の人物を見込んで娘の脱走を黙認したという解釈も成り立つが、筆者はむしろ政子の情熱が父の去就を決定づけたのだと考えている。時政という人物は、後年、後妻の専横に振り回されてその地位をうしなうなど、果断とはいいがたい性質が窺える。政子の行動がなければ、のちに鎌倉幕府で北条氏が実権を握ることもなかったのではないか。歴史を動かした情熱といって過言ではあるまい。