たいしたことがなかった私がプロ選手に 登板2回で得た後悔 元横浜投手、染田賢作さんのセカンドキャリア
身長約160センチ、50m走8.2秒、急速104キロ――。「中学時代、チームで1番野球が下手だった」と話すのは、元横浜ベイスターズ投手で現在は高校教諭の染田賢作さん(38)です。“野球劣等生”から一転、二つの転機をきっかけにプロ野球選手になるも、一度も実力発揮出来ないまま、戦力外通告を受けてしまいます。「上手い下手ではなく、自分に甘かった」。10年以上経った今、その理由を染田さんは振り返ります。(ライター・小野ヒデコ) 【画像】染田賢作さん、現役時代はどんな選手だった? 写真はこちら 野球劣等生から横浜ベイスターズへ
受動的から主体的に変わった練習姿勢
<練習を積んでも野球が上達しない日々。自分のことを劣等生だと思い込んでいた> 野球を始めたのは父の影響です。父は野球をしたことがなかったのですが、野球好きが講じて、5歳の私に野球を教えてくれるようになりました。「キャッチボール」レベルではなく、アップから基礎練習まで1日3時間みっちり指導されました。私は父がとても好きだったので、素直に言うことを聞いて練習に励んでいましたね。 中学時代は少年野球団に入っていたのですが、チーム一下手くそでした。当時、身長は160センチあるかないかで、50mは8.2秒、球速は104キロ。 これらは小学生レベルの数値です。今となっては、野球が下手な理由は身体能力がなかったからだとわかるのですが、当時はいくら練習しても野球が上手くならない劣等生だと思い込んでいました。 スポーツより勉強が好きだったので、受験勉強に励み、甲子園に出場している奈良県立郡山高校に進学しました。硬式野球部に入部し、立てた目標は「ベンチ入りをすること」。本当はピッチャーをしたかったのですが、入部時は自分から言い出す自信はなく、ポジションはサードになりました。 一つ目の転機が訪れたのは高1の時です。中3から高1の間に、身長が20センチ伸びました。その結果、球のスピードも上がり、自分でも成長を感じるようになりました。ピッチャーへの憧れは変わらなかったので、サードから毎回全力で送球をしていく中で、肩が徐々に強くなっていきました。「ピッチャーになりたい」という強い思いが、行動に表れた結果でした。 幼少期から中学時代は、練習のわりには成長を感じることができなかったのですが、それは野球を「受動的」にしていたからだと思います。高校時代に成長できたのは、「主体的」に練習をしていたから。その原体験が野球生活において、大きな心の変化へとつながりました。