ナヴァリヌイ事件で露保安庁の関与暴露 払拭できぬ疑問
【ロシアと世界を見る目】プーチンは関わっているのか
ロシアの反体制活動家、アレクセイ・ナヴァリヌイの毒殺未遂事件についての重要情報が相次いで明らかにされている。 調査報道で知られる国際的報道機関のベリングキャットを中心にした調査チームが今月14日、犯人はロシアの連邦保安庁(FSB)の工作員だとの報告(以下ベリングキャット報告)を発表した。 その1週間後の21日には、ナヴァリヌイ自身がFSB工作員の1人と目される人物と交わした通話記録が明らかにされた。 ウラジーミル・プーチン大統領以下、ロシア政府は当初から事件への関与を否定してきた。今後もその姿勢を変えないだろう。しかし、ナヴァリヌイや彼を支援する側からの強烈な情報攻勢に晒され、守勢に追いやられるばかりだ。反転攻勢の材料を示せないでいる。 FSBが関与したとの疑惑は一段と濃くなった。ただ、疑問点は数多く残り、事件の全容解明はまだ遠い。 事件は今年8月20日に起きた。地方選挙を控え自陣候補へのテコ入れなどのためシベリアのトムスクを訪れていたナヴァリヌイが、モスクワに帰るためトムスク発の航空機に搭乗した。ところが、離陸後30分ほどで昏睡状態に陥った。 機長の判断で、航空機はオムスクに緊急着陸した。空港で救急隊員が対応、病院に搬送された。22日、ナヴァリヌイは家族の要望でドイツから派遣された特別機でベルリンのチャリティ病院に搬送された。 当初から毒物使用が疑われていたが、9月2日にドイツ政府がナヴァルヌイの体内からノビチョク系の神経剤を検出したと発表した。ナヴァルヌイは治療を受けて順調に回復、昏睡に陥ってから約1カ月後の9月22日に退院、今もドイツにとどまりリハビリを続けている。 ナヴァリヌイは意識を取り戻してからプーチン大統領による犯行だと非難してきた。ただし、その主張を支える情報はなかった。だが、今月14日、ベリングキャットが米CNN、独シュピーゲル誌、さらにロシアのニュースサイト「ザ・インサイダー」と共同で進めてきた調査結果を発表、衝撃を与えた。 それによると、FSBの犯罪研究所(日本でいう科捜研に相当)に集まった特別チームが2017年からナヴァリヌイを尾行、監視を続けてきた。2017年はナヴァリヌイが翌年の大統領選への出馬を表明した年だ。 このチームは少なくとも8人からなり、医学博士、化学兵器専門家らも入っている。班長的存在は同研究所幹部のスタニスラフ・マクシャコフ大佐。チームは今年8月にナヴァリヌイがシベリアのノボシビルスクとトムスクに出かけた際も後を追った。 ベリングキャット報告は、大量の通信記録、さらに航空機の乗客名簿など旅行記録をくまなく調べ上げた上で作成されており、FSBのチーム構成員の名前、年齢、略歴などを具体的に列挙している。外部の人間がロシアの情報機関の工作員の行動をよくここまで調べられるものだと感心させられる。信じられないくらいだ。 ナヴァリヌイの8月のシベリア出張にはFSBチームのうちの3人が追尾した。その3人の名前も、アレクセイ・アレクサンドロフなどと具体的に指摘している。 彼らはシベリア旅行中に頻繁に連絡を取り合っていた。報告はナヴァリヌイが8月20日にトムスクのホテルを出て空港に向かった時間帯に連絡の回数が急増したと指摘し、このチームが毒物をナヴァリヌイに接触させる犯行に及んだとの判断を示している。 こうしてベリングキャット報告はFSBチームの個人情報を明らかにするなど、新鮮な情報を大量に提供してくれた。だが、その一方で、具体的に誰がいつどのようにどんな毒物をナヴァリヌイに接触させたかについての情報は示していない。したがってベリングキャットなどは状況証拠をもとにFSB犯行説を打ち出したと言えるだろう。 ベリングキャット報告のもうひとつの注目点は、犯行が「クレムリンの最高幹部」の承認を得て実行されたと告発していることにある。これは、プーチン大統領による犯行だと言っているに等しいが、この点についても直接の証拠は示していない。 ベリングキャットなどはFSBチームの通信記録などを大量に入手したものの、プーチン大統領やニコライ・パトルシェフFSB長官、あるいは大統領府高官が登場する場面はない。 ところでベリングキャットなどはどのようにして膨大な記録を入手することができたか不思議だが、彼らは報告を発表した同じ日、情報収集をめぐる事情について別の記事で説明している。それによると、ロシアには通信記録を売買する闇市場が存在し、eメールのプロバイダーの管理は他の先進国に比べ甘い。さらには、FSBチームの中に盗聴防止が確保されていない一般回線を使って連絡を取り合うという過ちを犯した者もいたという。 ベリングキャット報告が衝撃的であることは間違いないが、既に指摘したように、犯行の直接的証拠についてはモヤモヤ感が残ると思っていたら、その1週間後の21日にはナヴァリヌイが自らFSBのチームの一員と目される人物との間で交わした通話の記録を公表した。これも極めて興味深い。 ナヴァリヌイによると、先の14日のベリングキャット報告の発表時間をモスクワ時間14日午後3時に設定、その前、当日朝の午前7時にナヴァリヌイのチームが手分けして一斉にFSBのチームに電話をかけるなど接触し話を聞くことを試みた。 ナヴァリヌイ自身、数人に電話を掛けた。だが、応対してくれたのは1人。それがコンスタン・クドリャフツェフ。FSB犯罪研究所の職員で化学者だという。 ナヴァリヌイは、パトルシェフ・ロシア安保会議書記の補佐官だと名乗り、一般回線を使ってクドリャフツェフに電話を入れた。パトルシェフに早急に報告を出さなければならなくなったから早朝にもかかわらず電話を掛けたと説明した。通話は約45分間。通話の全容をナヴァリヌイのウェブサイトで視聴できる。 ナヴァリヌイがクドリャフツェフから聞きだそうとしたのは、主に2つにまとめられるだろう。第1に、なぜ殺害できなかったのか。第2に、毒物をいつどのようにナヴァリヌイに接触させたか。 特に第2の疑問への答えが注目されるのだが、結論から言うと、はっきりしない。 クドリャフツェフはFSBチームの一員だが、やり取りを聞くと、彼はFSBのチームの中では言わば脇役だったことが浮かびあがる。彼を実行犯だと表現した日本の新聞もあるが、彼は毒物が付いたナヴァリヌイのパンツやズボンを洗浄し、毒物の痕跡を消す役目を負っていた。クドリャフツェフがオムスクに行ったのは事件から5日後の8月25日で、20日以前にはトムスクにもオムスクにもいなかった。 ナヴァリヌイの度重なる質問にもクドリャフツェフは具体的にどのように毒物をナヴァリヌイに付着させたかは知らないと答えた。それでも毒物がナヴァリヌイの青色のパンツ(下着)の前開き部分の裏側に集中的に付着していた旨説明した。なお2人の通話には「ノビチョク」という言葉は出てこない。「物質」といった表現で話が進められた。 パンツやズボンはオムスクの地元警察が病院から回収、クドリャフツェフに渡した。洗浄後は警察側に返却したという。 もうひとつの疑問、なぜFSBチームはナヴァリヌイ殺害に失敗したかについて、意見を求められたクドリャフツェフは、ナヴァリヌイの搭乗機が機長の判断でオムスクに緊急着陸し、ただちに治療を受けられたことを挙げた。搭乗機がそのままモスクワに向かうか、オムスク着陸がもっと後になれば、救命治療が難しくなり、違う結果、つまりナヴァリヌイ殺害は成功していただろうという主旨の回答だった。 ナヴァリヌイは、このクドリャフツェフの回答によってFSBがあくまでも殺害するつもりだったことが明らかになったと解説している。 プーチン大統領は今月17日の年末恒例記者会見で、ナヴァリヌイを殺害しようと思えば、そうできたはずだと述べて、ナヴァリヌイ殺害への関与を否定している。ナヴァリヌイはこのプーチンの説明が成立しなくなったと言いたかったのだろう。 FSBはナヴァリヌイ・クドリャフツェフの通話について、まったくのでっち上げだと論評した。ロシアにはまた、FSB工作員が一般回線を使った電話で作戦についてしゃべることなどあり得ないという専門家もいる。 しかし、FSBは名前が上がったFSB工作員らが実際に存在する人物であるのかくらいは発表して反論すべきだと思うのだが、ただ「でっち上げ」だと繰り返すのみだ。 ナヴァリヌイとベリングキャットなどによる努力で、ロシア当局の関与疑惑が深まったことは間違いないのだが、全てが明らかになったわけではない。まだまだ疑問点は多い。 以下、主にロシア当局によるノビチョクを使った犯行であるとの説を前提に疑問を列挙してみた。 1)プーチン大統領はナヴァリヌイがドイツに搬送されれば、検査の結果、ノビチョク使用がばれるはずなのに、なぜ搬送を認めたか。 2)当局はナヴァリヌイを殺害しようとすれば、怪死事件として処理できたはずで、例えば、交通事故や喧嘩などを装い殺害できたのに、なぜわざわざ危険な化学物質ノビチョクを使う必要があったのか。 3)ドイツ当局の検査ではナヴァリヌイの血液などからノビチョク・グループに属する神経剤が検出されたというが、ノビチョクは短時間で効き目を発揮する極めて致死性の高い物質であるはずだ。それなのになぜ効き目が出るまでに何時間もかかったか。効き目が弱い新型のノビチョクを開発したのか。 4)クドリャフツェフによると、彼はナヴァリヌイのパンツについていたノビチョクと思われる毒物を洗い落としたというが、なぜそんな危険な作業が必要だったのか。そのまま、地中に埋めるなど廃棄すればよいのではないか。 5)ナヴァリヌイ支援チームは9月17日にナヴァリヌイのホテルの部屋にあったペットボトル表面からノビチョクが検出されたと発表している。しかし、クドリャフツェフによると、毒物はパンツに付いていたという。当局はペットボトルに塗ったのか、パンツに塗ったのか。 6)ナヴァリヌイはプーチンのライバルというにはほど遠い政治的影響力しか持たない。それなのに、なぜ彼を末梢する必要があるのか。単に目障りというだけなのか。将来、強力なライバルになるという危惧があったのか。ナヴァリヌイが次の大統領選への出馬を考えていたとしても、前科があることなどを理由に合法的に出馬登録を拒否すればよいのではないか。 7)米欧諸国政府は従来からナヴァルヌイに同情的で、彼が殺害されれば、対ロ制裁を強化するはず。プーチン大統領はそれを知りながら殺害を指示するか。 最後に、現時点で事件をどう総括できるのか簡単に感想をまとめてみた。 プーチン大統領やボルトニコフFSB長官がナヴァリヌイ殺害の指示を出した可能性は排除できない。ただし、それを示す証拠は具体的には今のところない。 仮に最高幹部の指示がないとすると、下の者が上に連絡せず独自に行動したという可能性が高くなる。そんなことがあり得るか。この事件に関心を寄せる米国のロシア専門家、ゴードン・ハーンは、あり得るという。ロシアでは実は法の支配があまり徹底しておらず、官僚組織や暴力組織などの特殊な利害を有する集団が勝手に行動した可能性があるとみる。 今後もこの事件に関する情報が次々と表に出てきて、推測部分が徐々に縮小することを期待したい。 ■小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長) 1973年東京外国語大学ロシア語科卒。日本経済新聞社入社。モスクワ、ロンドン駐在、論説委員などを務め2011年退社。 現在、国際教養大学客員教授。