〈名曲『深夜高速』誕生秘話〉「いちばん恥ずかしいことを歌にしろ」マネジメント契約終了に離婚…社会に必要とされない35歳が自らを赤裸々に歌うと…
ある日突然、「実家に帰ります」と…
さらに、圭介の「ライブを止めてひとりで曲を書き続ける日々」は、ちょうど「結婚して子供が生まれた時期」と重なっていた。 「子育てが大変な時期だったのに、僕が全然うまくできなくて、そのことに僕自身もめげて、結局犬と部屋に閉じこもって曲を作っていて、家庭内別居みたいな状態になって。 で、ある日、突然いなくなっちゃった、『実家に帰ります』と。犬も連れて行っちゃって。かなりきつかったですね。自分のせいだけど」 しかも、アンティノスからの最後の1枚になるはずだったそのアルバムは、デモ音源まで作ったが、レコード会社の都合で、リリースできないまま契約が終わる。 「この音源、おまえらにやるから」と言われたそのアルバムは、『吐きたくなるほど愛されたい』というタイトルで、フラカンと一緒に同社を去ったディレクターが立ち上げたインディー・レーベルから、2002年7月にリリースされた。 「ちょっと前までチヤホヤされてたのが、バンドの人気が下がり、お客さんが離れていき、家族、犬もいなくなり、レコード会社とマネジメントの契約もなくなって。もう完全に、社会に必要とされてない、みたいな感じになりました。 でも、バンドをやめようとは思わなかった。僕の生きる価値は、もうバンドにしかなかった。メンバー以外に友達もいないし、バンドがなくなったら本当にひとりになってしまうなと。 それに、契約が終わって最初は、5ヵ月ライブができなかったことで、僕よりも他のメンバーがストレス溜まっていましたから。とにかく早くライブを再開したい、という気持ちで。 それでグレート(グレートマエカワ。ベーシストでありリーダーでありマネージャーであり社長)が、地方のライブハウスとかイベンターに連絡して、すぐブッキングを始めました。あのとき以降、今でもずっとグレートがライブ、ツアーを組んでくれています」
最底辺から這い上がる日々が始まった
そんなわけで2001年から、ハイエース1台にメンバー4人で乗って、全国のライブハウスを回る日々が始まる。どの地方に行っても動員は激減していたが、そこから一歩一歩這い上がって行く日々は、意外と充実したものだったそうだ。 「移動から機材のセッティングからバラシから、物販まで、全部自分たちでやる。ちょっと前までは全部スタッフがやってくれてたことだから、最初は『こんなことまで自分でやるのか』って凹んだりもしましたね。 自分たちだけになって最初のツアーを回ったときは、びっくりするぐらいお客さんが減ってました。でも、それにも慣れてきて、次に行くときはちょっとでも増やせるように頑張ろう、とかそういう考え方になっていきました。 実際、いいライブをやれたなと思った場所は、次に行ったときに動員が増えていたりするし、いいライブをやった日は、物販の動きもよかったりする。メジャーにいた後半は、全部スタッフまかせだったので、そういう実感がわからなくなってたんですよね」 そんな生活の中、35歳のときに「深夜高速」は生まれた。「ヘッドライトの光は手前しか照らさない」「生きててよかった そんな夜を探してる」という歌詞のとおり、ハイエースで全国各地を回り続ける現在の自分自身を、赤裸々に描いた曲である。