初のJ1入りに挑む、J2岡山を支える木村正明オーナーの覚悟
アスリートでありながら、投資家としての意識を持つ「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。今回は少し趣向を変えて、アスリートを集めてチームを作っていく側のクラブオーナーにフォーカス。2005年からプロサッカーのJ2リーグ・ファジアーノ岡山の運営に携わり、2006年から2018年まで代表取締役社長に就任。その後、Jリーグ専務理事を経て、2022年からクラブオーナーとしてJ1初昇格に本気で挑んでいる木村正明さんにご登場いただきました。 1968年に岡山県岡山市で生まれた木村さんは、岡山朝日高校から東京大学法学部へ進み、1993年にゴールドマン・サックスに入社。債券営業部長を経て、2003年にはマネージングディレクター(執行役員)に就任。同年就任の役員の中では最年少という異例の出世を遂げたのです。 金融畑で手腕を発揮していた木村さんがファジアーノ岡山に携わるようになったのは2005年。当時NPO法人だったクラブの専務理事を務めていた幼馴染の森健太郎氏(岡山学芸館高校校長)から寄付の依頼を受けたことで交流が生まれ、2006年にはゴールドマン・サックスを退社して代表取締役に就任。異例の転身を遂げ、そこから私財を投じてクラブを支えたといいます。 2024年、岡山はJ2で5位に入り、J1昇格プレーオフに参戦。クラブ初の最高峰リーグ入りを懸け、12月1・7日の大一番に臨みます。そこまでこぎ着けたのも敏腕オーナーの努力があってこそ。それは誰もが認めるところです。 木村さんはいかにして岡山が厳しかった時代を支えたのでしょうか。そのあたりからまずは伺いました。 ■岡山でプロスポーツに憧れ ――木村さんはもともとサッカーが好きだったんですか? 木村:小学校時代は野球をやっていましたが、中学からサッカーを始め、社会人になってからも東大サッカー部OBチーム(現東京ユナイテッドFC+Plus)でプレーしていたので、もちろんサッカーは好きでした。岡山県民というのは隣の広島県にライバル意識があって、広島カープのようなプロスポーツチームがあることを羨望のまなざしで見ていました。一方で隣の兵庫県には阪神タイガースもある。「岡山にもプロスポーツがあったらいいのに・・・」という思いは10代の頃からずっと抱いていましたね。 ――とはいえ、プロスポーツチームに憧れるのと、実際に運営するのとはまったく違います。 木村:そのとおりですね。私が岡山に関わり始めた頃、すでにJ1の年間運営規模(売上高)は平均30億円を超えていましたからね。J2は1999年からスタートしてまだ5~6年でしたが、平均7億~8億円。自分のお金で何とかできるレベルではありませんでした。 当時の岡山はNPO法人が大きな負債を抱えていて、解散するか継続するかで岐路に立っていました。私もゴールドマンを退社し、NPO法人を解散して、2006年7月に株式会社を設立することで再出発しました。この頃、チームははまだ中国リーグ(当時4部相当)に在籍していて、入場料収入も取れない状況だった。それでも、いい選手を獲得しないと上のカテゴリーに上がれませんから、自分のお金を投じるしかなかったですね。 ■毎月300万~400万円の手金を投入 ――どういう形で資金を捻出したんですか? 木村:借りられるだけお金を借りて、運用を積極的に行っていました。不動産や債券、個別株を購入し、その運用益を出して、クラブ運営に投入するという形です。 ゴールドマン時代は債券の部署にいましたから、債券はある程度、知識がありましたけど、個別株のほうは全然わからなかった。そこで詳しい先輩と後輩に聞いて、キャピタルゲイン(売却差益)とインカムゲイン(資産利益)の両方を意識しながら、自分なりに最適解を探っていました。 運用はつねにしなければいけなかったので、時間のある時には海外市況を見たり、為替相場を見たりしながら、つねに勉強をしていました。その習慣は現在に至るまで変わっていませんし、週末に自分なりに方向性を決めて投資する形は続けています。 一方で元ゴールドマンの役員だったので、ゴールドマンの株も結構持っていましたけど、ドル建てなんで為替変動にビクビクしていた記憶があります(苦笑)。 ――まったく先の見えない状況ですね。 木村:本当にそうなんです。岡山は2005~2007年は中国リーグでの戦いを余儀なくされましたから、スポンサー営業をしようとしても企業のアポイントはなかなか取れないし、たまたま知り合いの経営者に会っても、「ウチは金がないから」と間髪入れずに断られることもありましたからね(苦笑)。僕自身、生意気にも外車を2台持っていたんですが、そのあと売却して、持ち金をどんどん投入していった記憶があります。 結局、2007年の中国リーグで首位になり、さらに全国地域リーグ決勝大会(現全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)でも優勝して、やっとの思いでJFL(ジャパン・フットボール・リーグ=当時3部相当)に上がれたんです。それまでの1年半くらいは毎月300万~400万円の手金を投入している感じでした。親企業のない他のクラブ社長はみなさん無給でしたが、私もずっとそうでしたし、ゴールドマン時代の資産もどんどん減っていくので、「いつまでこれが続くんだろう」という不安との戦いだった。あの時がいちばんキツかったですね。 ――後ろ盾がまったくない状態だったということですね。 木村:そうなんです。Jリーグは楽天が責任企業のヴィッセル神戸、富士通が責任企業の川崎フロンターレなど、大企業がバックにいるクラブが目立ちますけど、本当に岡山はまったく違いました。 地元の名士の方が地域のために私財をなげうって運営して、苦しくなったら別の名士に受け渡すといった地方クラブもいくつかありますけど、岡山もそれに近い状況だったのかなと思います。当時、大学で同窓の池上三六さんが経産省を退職してサッカー界に入り、2006年末から常勤取締役として入社してくれたのですが、私の力不足で報酬が払えませんでした。 だからこそ、2007年の地域決勝大会でJFLに上がれた時は嗚咽しました。JFLに上がればチケット収入も入りますし、スポンサーが増える見通しもついていたので。あのまま固定費をずっと負担し続けることはできなかったなと今になると感じますね。 ■一度始めたら責任を果たす ――そこまでしてクラブを支えようと思ったのはなぜなんですか? 木村:やはり「一度始めたからには、自分が責任を果たさないといけない」という思いからでしょう。スポンサーを募るため、いろんな人に会いに行くと「お前が根性見せろ」「気合を見せろ」といったことをすごく言われましたからね。「お前は首をくくる覚悟があるのか」くらいのことも言われたかな。毎日が修羅場だった気がします(苦笑)。 親戚も地元の岡山で商売をしたりしていますから、私が辞めたりしたら大変なことになる。自分1人の判断ではどうにもならないところまで行っていました。 ただ、そうやって本気で取り組んでいることに賛同してくれた人もいました。同級生も動いてくれましたし、地元のメディアも取り上げてくれていた。熱心なサポーターの方もいました。そうした方々の存在には大いに励まされた部分もありました。 2008年にはリーマンショックがありましたけど、あの年まで中国リーグに残留していたら、どうなっていたのかな・・・と考えることはあります。2007年の昇格は本当に大きなターニングポイントになりました。 今ではJ1昇格に迫るほどのクラブになった岡山ですが、木村さんが関わり始めた数年間は本当に厳しい状況だったというのがわかります。木村さんもそうとうなリスクを背負って取り組んだようですが、ゴールドマン・サックス出身で運用のプロだったことが幸いしたのは間違いないでしょう。 その後の岡山と木村さんがどのような軌跡をたどっていくのか。次回以降に伺います。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子