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高校94発男・伊藤諒介さんは静かに引退していた

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日刊スポーツ

<アマ野球リポート> かつての「本塁打王」は静かにバットを置いていた。神港学園で10年に当時の高校通算最多94本塁打を放った伊藤諒介さん(28)は所属していた社会人・大阪ガスで昨秋に現役を引退。アーチを量産した高校時代の苦悩など完全燃焼の野球人生を振り返った。 【表】主な高校通算本塁打上位 高校通算94発を放ったスラッガー伊藤さんは、昨秋、静かにバットを置いた。昨年11月、所属する大阪ガスは日本選手権で悲願の初優勝を飾った。その数日後、橋口博一監督(52)から、この年限りでの退部を告げられた。「悔いはないですし、ホッとしたのが正直なところでした」と現役引退を決意。現在は社業に専念し、出身地の兵庫県姫路市で、インフラ整備担当の営業として、地域の住宅などを訪問するなどの仕事をしている。 88キロあった体重は現在80キロに。その姿は10年前、日本中の高校野球ファンに注目されたころのイメージと変わらない。高校3年生だった10年6月3日、兵庫商との練習試合で通算87本目の本塁打を放ち、07年に大阪桐蔭・中田翔(現日本ハム)が記録した当時の高校通算最多本塁打記録に並んだ。「プレッシャーは多少ありましたね。その時、(神港学園の)グラウンドが小さい、練習試合が多い、相手が弱いとか言われたりしていたので…。87本で1回止まったと思うんですけど、この試合相手では、(打っても)またたたかれるだけじゃないかとか」。まだ17~18歳の少年は、周囲の雑音にのみ込まれ、12試合ノーアーチ。初めて味わう長期スランプで、88号は3週間後、6月24日の市尼崎との練習試合だった。 94本のうち、甲子園でも1本放っている。3年春のセンバツ。1回戦高知戦で、左腕から低めの変化球を右翼席へ豪快にたたき込んでいる。それでも「自分が目指している打撃とはまったくほど遠い感じでした」と納得していない。 高2の夏に腰を痛めた。腰椎分離症だった。「夏の大会が終わったあとに3、4カ月。歩けないし寝返りも打てないくらい痛くて」。技術練習ができないリハビリ時期にウエートトレーニングに励んだことも結果的にマイナスとなった。「上半身の力が強くなりすぎて、バランスが悪くなった。引っ張ってばかり」。自分の理想の打撃ができなくなり、技術よりもパワーで本塁打を打つようになってしまった。「ケガする前までの打撃ができていれば、プロでも自信を持って挑戦できたかなとは思いますね」。 プロ入りしたい気持ちは当然あった。高卒時には大学進学からのプロ入りを思い描いていた。だが法大1年の夏に右肩を痛め投げられなくなり「気持ちが折れてしまった」とまたも故障に泣かされた。大阪ガスでも内野守備からの送球難に悩まされた。 それでも高校で甲子園出場、大学では東京6大学優勝、社会人では都市対抗、日本選手権で優勝を経験している。中学時代も全国大会優勝、小学生ではソフトボールながら全国準優勝に輝いている。「これ以上ない野球人生だったと思います」。94発男の野球人生は完全燃焼だった。【石橋隆雄】 ◆伊藤諒介(いとう・りょうすけ)1992年(平4)6月11日生まれ。兵庫・姫路市出身。手柄小2年から「サンチャイルド」でソフトボールを始める。6年で全国大会準優勝。山陽中では硬式「姫路アイアンズ」でプレー。3年春全国優勝。神港学園では1年春からベンチ入り。甲子園は3年春に出場。高校通算本塁打94発。法大では1年からレギュラー。大阪ガスでは5年間プレー。18年に都市対抗優勝、19年に日本選手権優勝。173センチ、80キロ。右投げ左打ち。 <編集後記> 伊藤さんが中学時代、硬式野球「姫路アイアンズ」で指導してもらった首脳陣が大阪ガス野球部のOBだった。「あの人たちみたいになりたい。社会人なら大阪ガスに入りたいと思っていた」。社会人の5年間では3年目から本塁打より確実性重視に打撃スタイルを変更するなど苦労した。だが、その分教えられる幅も広がった。「今後も野球に携わっていきたい。子どもたちにも教えていきたい」と今度は伊藤さんが指導者になる番だ。大阪ガスでは阪神近本ともプレーした。「将来、子供ができて、『お父さん、近本選手と一緒に野球していたんだよ』と言えるまで、頑張ってほしいですね」と、かつての同僚には息の長い活躍を期待していた。 【石橋隆雄】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

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