Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

正中岳城ラストメッセージ「一緒にバスケット界、スポーツ界を盛り上げていけたら」

配信

バスケットボールキング

一人の選手が静かに現役生活に幕を下ろした。そのニュースが報じられると、所属のアルバルク東京の選手だけでなく、かつてのチームメートたちがSNSで惜別のメッセージを発信。しかも、新旧の戦友だけでなく、「いつかは一緒にプレーしたかった」とつぶやく選手も現れるというかつてない事態が起きるのも、ならではと言えるのではないだろうか。決して手を抜かないプレーだけでなく、熱いコメントでも多くのファンを持つ正中岳城選手。現役生活を振り返るとともに、"黄金世代"と称された同期の選手への想いも語ってもらっている。 日本バスケットボール界の永久欠番を逸話とともに紹介…北卓也やジェフ・ニュートンら計13名 取材協力=アルバルク東京 インタビュー=入江美紀雄

青山学院大に行かなかったら今の自分はない

――改めまして現役引退おめでとうございます。まず、アルバルク東京の前身、当時はJBL(日本バスケットボールリーグ)に所属していたトヨタ自動車に青山学院大学卒業後進みますが、大学卒業も上のカテゴリーでプレーすることを意識したのはいつごろですか? 正中 はっきり意識したのは大学3年の終わりのころでした。(青山学院大の)1つ上の先輩方、当時でいうと大屋秀作さん、佐藤託矢(現:信州ブレイブウォリアーズ)さんが、それぞれ日立(現:サンロッカーズ渋谷)と三菱電機(現:名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)に入ることが決まったという話を聞いて、より身近な話題、出来事となりました。「自分ももしかしたらトップチームでやれるチャンスがあるのではないか」と。具体的に感じたのはそのときでした。 ――青山学院大の3年次というと、チームの主力としてプレーができるようになり自信も出てきたころですか。 正中 自信が出てきたのもあると思いますが、そろそろ進路を考えなければいけない時期となり、「次は何をするんだ」とちょっとずつ考えるタイミングだったということもありますね。 ――確かに周囲の同級生も就職活動を始める時期だと思います。ご自身として、就職するイメージでしたか? トップリーグでプレーするぞという意気込みもありましたか? 正中 就職するイメージだったと思います。大学に関しても入部という感覚ではなく入学するという感覚でした。入社する、入団するという感じですかね。そこを切り離して考えてなかったです。入社イコール入団という感じにとらえていたと思います。 ――Bリーグが始まってもアマチュアのままでプレーをしていましたが、現役引退後は社業に専念することを大学時代から意識でいたのですか? 正中 仕事に関してはそこまで明確に考えていたわけではありません。そうなればいいなというくらいでしょうか。大学4年の終わりごろ、どのような形態でプレーするかを考え始めました。(バスケ専門の)嘱託で行くのか、または正社員なのか。同じ大学から一緒に入団することになっていた岡田(優介、京都ハンナリーズ)と自分を比べていろいろと考えながら、競技、学生生活に向き合っていたと思います。ただ思い悩む程ではなかったですね。その中で会社員としてやってみようという気持ちが自然と固まっていきました。 ――進学を決めたころ、大学に入ったころを思い出してほしいのですが、兵庫の明石高校から関東の大学に進学します。当時、どのような決意を持っていましたか? 正中 僕は高校進学のときに、県内の強豪校に行っていません。縁があって青山学院大に進学することになり、そこは厳しい世界が待っている認識は持っていました。自信があったわけではありませんが、こういう流れに身を委ねてみるのもいいかもしれない、チャレンジもあるだろうと思いました。自分の高校時代に足りなかった部分にチャレンジしたい、知らない場所で勉強も頑張って、高校時代よりも厳しい環境でやるのもいいんじゃないかと。試験にも通ったし身を委ねてみようという感じでしたね。 ――実際入学してみて、どう思いました? 正中 厳しかったです、身体的にも。進路として自分に合ってないのかなとも思いました。でも青山学院大は1学年の人数が絞られているチーム構成で一人ひとりに目が届くので、やっていけばなんとかついていけるとも言えます。それが毎年10人も選手が入ってきて、同じポジションに同期だけでなく先輩にも何人もいるようなチームだったら厳しかったと思います。1、2年生のときからいろんな経験をさせてもらって。トレーニングをして体を鍛えてというプロセスを経ていきながら、少しずつ進んでいけるチームだったので、すごく合っていたのかなと思います。入ったときはいろんなことが必死でしたけど、「しんどいな」「辞めようかな」という感覚になったことはないですね。 ――兵庫から出てきた"正中少年"にとって、練習場のある相模原の校舎(神奈川県)から渋谷の本校(東京都)に通うのも大変だったのでは? 正中 一人暮らしも大変でした。学校に通って、練習をして、終わって帰ったらもう23時くらいで、また次の日も朝から。大変だったと思います。自分を律してコントロールしていくのが当時の一番のテーマでした。 ――青山学院大に行かなければ今の自分はない? 正中 確実にそうだと思います。

【関連記事】