映画『ナミビアの砂漠』:山中瑶子監督が河合優実の身体で描く千通りの感情
松本 卓也(ニッポンドットコム)
自主制作映画『あみこ』を引っ提げ、弱冠20歳で鮮烈な世界デビューを果たした山中瑶子監督。その待望の新作『ナミビアの砂漠』は、今年のカンヌ国際映画祭「監督週間」に正式招待され、女性監督として史上最年少で国際批評家連盟賞を受賞した。いま最も勢いのある女優、河合優実を主演に迎え、一人の女性の波打つ感情を多彩に描き込んだ唯一無二の快作だ。
必ずしも映画ファンとは限らない広い読者層を想定しながら映画の紹介をしている立場として、常々「これは観たほうがいい」などと差し出がましい言い方はしたくないと思っている。しかしこの『ナミビアの砂漠』はそう言うしかないと思わせてしまう作品だ。 それは、ここ何年かの日本社会とそこに暮らす日本人の姿を眺めながら、その間に世に出た数々の映画を観てきた中でこの作品に出会い、しみじみと沸いてきた感想だ。「それってあなたの感想ですよね?」と言われてしまいそうなので、そこを少しでも納得してもらえるように書いてみたい。 この時代に生きるほぼ誰もが、さほど敏感でなくても、世界、人類、日本、日本人について、「いったいどうなっていくの?」と不安を感じているはずだ。映画には、そんな日常に新たな気付きを与えてくれたり、あるいは忘れさせてくれたりする力がある。しかし、世界を変えるほどの力はあるだろうか。たとえ信じたくても、小さな諦めがいつも心のどこかにあるのではないか。 ただ少なくとも、人を変える力はある。だから出会いを求め続けなくてはならない。この世には、たくさんの才能が日々現れては消え、あるいは埋もれたままになっている。『ナミビアの砂漠』は、山中瑶子という稀有な才能の持ち主のもとにすぐれた人々が集まり、実を結んだ作品であるのは間違いない。あとはそれに出会うか出会わないか、出会ったなら何を感じるかだ。
日本映画界の“アンファン・テリブル”
躍進著しい女優・河合優実の存在は気になっても、『あみこ』を観ていなければ、山中瑶子監督の新作と聞いたところで、そこまでの期待感はないかもしれない。 『あみこ』は2017年、20歳になって間もない山中が、若手監督の登竜門となる自主製作映画の祭典、ぴあフィルムフェスティバル(PFF)のコンペティション部門に応募した初監督作だ。高校を卒業して半年しか経っていない19歳の秋、初めて脚本を書き、その後の半年でスタッフ集めから、キャスティング、撮影、編集まで、走り抜けるようにして作り上げた。 制作の疾走感がそのまま刻まれたような手触りの同作は、「PFFアワード2017」で観客賞と「ひかりTV賞」の二冠に輝く。ちなみにPFFアワードのひかりTV賞とは、「既存の概念、枠組みに捉われず、最新の技術や新たな表現方法にチャレンジしている作品に対して贈られる」とある。 その後『あみこ』は、ベルリン国際映画祭のフォーラム部⾨に史上最年少で招待されたのを皮切りに、数々の国際映画祭で賞賛を浴びることになる。ニューヨークで同作を鑑賞した故坂本龍一もその新感覚に瞠目(どうもく)した1人だ。当時「今後の作品が楽しみだなあ」とコメントしている。 しかし往々にして、自主制作で放った強烈な生(なま)の輝きは、職業的なスタッフやキャストといわゆる「商業映画」を作ると死んでしまう。だが山中瑶子は、そうした不幸な先例をものともせず、初の商業映画として取り組んだ『ナミビアの砂漠』で着実にスケールとパワーをアップしてカンヌにお目見えし、国際批評家連盟賞をさらってみせた。 日本人としては黒沢清(『回路』)や濱口竜介(『ドライブ・マイ・カー』)らに続く6人目の受賞で、さらに女性では国籍を問わず史上最年少の快挙だ。芸術分野における型破りな若き才能を指して、フランス語で「アンファン・テリブル」(恐るべき子ども)というが、日本映画界から、ついにその呼び名に真にふさわしい存在が現れたと言っていい。