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祖国を前に500人以上犠牲、引き揚げ船が機雷に触れ沈没 1945年10月17日の西日本新聞

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西日本新聞

 〈珠丸(たままる)の遭難者帰る--満鮮からの引き揚げ邦人と一部復員軍人など約千名を乗せて十四日対馬比田勝港を出港、壱岐勝本沖合で触雷沈没した九州郵船珠丸の遭難者のうち救助された船客百七十五名はいったん勝本町に収容されたが、うち六十一名は急報と同時に現地へ急行した同社功丸に乗せられ、十六日午後六時、憂色に包まれた同社山野井専務ほか船客関係者多数の出迎えを受け、博多港へ慌ただしく帰国第一歩を印した〉 【写真】「五百余名ほとんど絶望」と伝える1945年10月15日付の西日本新聞  今も長崎県の対馬と壱岐の両方に慰霊碑が残る珠丸沈没の一報は、事故翌日の15日の紙面に〈五百余名ほとんど絶望 五十余名救助 珠丸触雷して沈没〉の見出しで報じられている。  記事では「14日に比田勝を出港」とあるが、実際は比田勝を出たのは4日前の10月10日。対馬南部の厳原港に寄港したが台風の影響で4日間足止めされ、14日午前6時すぎに博多に向かい出港、午前9時ごろ、壱岐・勝本港沖で旧日本海軍が対馬海峡封鎖のため敷設した機雷に触れて爆発、沈没した。  名簿上の乗客乗員は730人で死者・行方不明者545人、厳原町誌(1997年発行)によると、実際は乗船名簿に記載されないままの人たちも多く、死者は「千人以上にも上っていたともいう」。戦後の海難史上、1155人の犠牲者を出した1954年の洞爺丸に次ぐ規模の惨事だった。  17日の記事によると、16日に博多に着いた生存者たちは〈まだ乾ききらぬ服、着物をわずかに身につけたまま打ち震え、ひとまず中央埠頭の臨時待合所に収容され、負傷者は県から特派した医師、看護婦の手厚い看護を受けたのち、市内不老館、対馬屋に分宿した〉とある。写真には、歩く生存者の後ろ姿がとらえられている。  救助された海軍一等兵曹は、次のように当時の様子を証言している。〈十四日午前八時五十五分、勝本沖十二浬(※カイリ)で触雷、十秒ののち船首を傾け、一分半ののちには沈没してしまった。比田勝および厳原からの船客は客室内にいたので同方面の船客はほとんど生存の見込みはないと思う。生存者百七十五名はいずれも甲板上にいた四百名の一部で、沈没と同時にカッターに乗った五十四名が現場に急行した神力丸に救助された〉  苦難の道のりの果てに、ようやく乗った船。帰国の直前での悲劇、亡くなった人も、生き残った人も、その無念は計り知れない。  2016年、本紙の取材に応じた生存者の男性(掲載時88歳)はこう語っている。「自分のことで精いっぱい。周りから『助けて』と言われても、どうすることもできなかった」  戦争が終わっても、戦争の犠牲者たちは生まれ続けていた。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、太平洋戦争中に投下・敷設された機雷によるとみられる船舶事故は、終戦後の5年間で少なくとも136件に上る。しかし、同館によると、「把握できたのは一定の大きさと規模の船。記録がない事故がどれぐらいあるか、犠牲者がどれほどいるか、全容は全く分からない」という。 (福間慎一)    ◇    ◇  〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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