富士吉田が織物で栄えた理由は? ファッションデザイナー高谷健太と巡る“ときめき、ニッポン。” 第3回「機織り町 富士吉田」(後編)
新年を迎えた読者の皆さんは、どんな初夢を見ただろう?「一富士二鷹三茄子」は、初夢に見ると縁起が良いとされることわざだが、日本人のアイデンティティーに富士山が深く刻まれていることを象徴する言葉でもある。富士山は、神々しい美しさと畏怖畏敬の念から“霊峰”と称えられ、浮世絵をはじめとした芸術に多大な影響を与え、2013年には「信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録された。ちなみに、私たちのオフィスからも富士山が見えるため、寛斎は生前、天気の良い日は必ず窓際に立ち、富士山を見ては「今日も富士山が美しいぞ!」と社員に声を掛けていた。 【画像】富士吉田が織物で栄えた理由は? ファッションデザイナー高谷健太と巡る“ときめき、ニッポン。” 第3回「機織り町 富士吉田」(後編)
ここでは、前回に続き、富士吉田の作り手のミニインタビューをお届けする。その前に、富士吉田の歴史から、織物が発展した理由を読み解いていく。
"江戸幕府がぜいたくを禁止 市民は裏地でおしゃれを楽しむ"
富士山は古代から崇拝されてきたが、戦国時代に新しい富士山信仰が教義としてまとめられ、その教えが江戸時代中頃に“富士講(ふじこう)”として大流行したことで、より多くの人が登拝するようになった。士農工商に関係なく、「霊峰富士に登れば救われる」という教えが庶民に分かりやすかったほか、当時の幕府の封建制度に不満を募らせる庶民のはけ口になったと言われている。
富士講が広まった江戸時代は、ぜいたくを禁止する法律「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」が何度も出されていた。武士や町人は指定された色・素材の着物しか着ることができず、そこから生まれたのが、“裏勝り(うらまさり)”と呼ばれる着物。幕府に禁止されていた正絹や派手な色・柄を裏地に使用し、互いの“粋”を競い合ったのだ。隠れたところに贅を尽くしてお洒落を楽しむ美学は、間違いなく現代にも受け継がれているし、江戸っ子のパンク精神とも言える。
この美しい裏地を織っていたのが、ここ富士吉田だ。富士山を登拝した客は、土産として絹織物を買うのを楽しみにしていただろう。特に有名な生地が“甲斐絹(かいき)”。貿易で日本に入ってきた“先染め”の織物を応用して生まれた織物で、その産地である“郡内縞(ぐんないじま)”の名前で親しまれた。当時は織物の産地名が“ブランド”だったのだ。井原西鶴の「好色一代男」をはじめ、数々の文学作品にも登場する。