「海上を走る鉄道」の線路跡発見が、約100年ぶりに見つかった理由
JR東日本が高輪ゲートウェイ駅前を中心に進める品川再開発計画の工事現場で昨年、日本で初めて開業した鉄道の線路跡「高輪築堤」の遺構が見つかった。築堤は東京湾の浅瀬に造られた。約150年前に「海上を走る鉄道」を実現できた理由は、江戸時代に培った日本の技術にあった。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也) 【この記事の画像を見る】 ● 高輪築堤の保存で 議論が活発化 昨年、JR東日本が高輪ゲートウェイ駅前を中心に進める品川再開発計画の工事現場で、日本初の鉄道の線路跡「高輪築堤」が出土した。筆者も見学する機会を得て、今年1月に現地を訪問したが、その光景を目にして思わず声が出た。浮世絵で見た姿が、そのままの形で存在していたからだ。 しかし、日本の鉄道のルーツそのものといえる遺構が、そのままの形で保存されるかは不透明な情勢だ。JR東日本は再開発第1期区域に高層ビル4棟を建設し、2024年度にまちびらきをする計画だが、高輪築堤は開発区域の一部にかかっているからだ。 JR東日本は「今後公開するため、どの部分を保存するか、移築も含めて検討を進める(1月9日付東京新聞)」とコメントしているが、日本考古学協会は一部保存や移築では不十分だとして、現地で全面的に保存するよう求める要望書を提出するなど、高輪築堤の扱いを巡る議論が活発化しつつある。
● 日本初の鉄道が 海上に敷設された理由 高輪築堤とはいかなるものなのか、詳しく見ていきたい。日本で初めての鉄道は1872年10月、新橋~横浜間約29キロに開業したが、なんとこの鉄道、新橋~品川間約2.7キロの区間は海上に敷設された線路を走行していた。 最初の鉄道にもかかわらず、なぜこのような複雑な構造を取ることになったのか。一説によると、高輪周辺の土地は国防上必要であるとして兵部省(軍)が引き渡しを拒んだために、やむなく海上に築堤を建造し、その上に鉄道を走らせることになったのだという。 地図を見てもらえれば分かりやすいが、当時の海岸線は現在の国道15号線(当時の東海道)の辺りまでで、その先は海だった。築堤は海岸線からわずかに離れた遠浅に築かれたのである。 明治になったばかりの時代に海上に築堤を造るというと途方もないことのように思えるが、江戸時代の日本にもそうした技術が存在した。1853年のペリー来航後、江戸幕府が江戸防衛のために東京湾の海上に築いた砲台が台場である。台場の建設に当たっては品川の八ツ山や御殿山を切り崩し、その土砂を使って埋め立てを行った。 同様に高輪築堤も埋め立てには八ツ山や御殿山の土砂を、基礎には松のくいを使い、石垣は江戸城や未完成の台場の石を流用して建造されたという。日本の鉄道はイギリスの技術を導入したもので、建設はイギリス人技師エドモンド・モレルの指導の下で進められたが、その礎となったのは江戸以来の土木技術であったのだ。工事はわずか2年の工期で進められたが、土砂が波に流されるなど苦労も大きかったそうだ。 出土した築堤は幅約21メートルだが、これは1899年に東海道本線の増線工事を行った際に拡幅した部分も含んだ数字で、建設当初は幅約16mだったそうだ。海側は約30度の浅い角度で、石材を1段ずつ並べる「布積み」と呼ばれる手法で石が積み上げられており、陸地側は直角に近い急角度で、石材を斜めに使って積み上げる「谷積み」と呼ばれる手法で組まれている。