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藤田貴大『季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛』は“上演”される小説だ リフレインが生み出す、文章の愉しさ

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リアルサウンド

 各界から注目を浴びる演劇ユニット・マームとジプシーを率い、あらゆるカルチャーを越境しては結びつけ、現代演劇の最前線に立っている藤田貴大。そんな彼による初の小説集『季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛』(河出書房新社)が、演劇公演が次々と延期や中止に追い込まれる今夏、ひっそりと誕生した。そこに綴られている独特な文体や世界観は、やはり、マームとジプシーの演劇作品を彷彿とさせる。筆者は本作を手にしたことで、久しぶりに“文章を読むことの愉しさ”そのものを味わうこととなった。  「コアラの袋詰め」というなんとも奇妙なタイトルの掌編を先頭に、続く「夏毛におおわれた」「綿毛のような」「冬毛にうずめる」「産毛にとって」の5つの短編からなっている本作。いずれもタイトルからだけでは、その物語がどんなものであるのかまったくといっていいほど想像がつかないだろう。実際のところ、いざページをめくってみても、なかなかどうして物語へと入っていくことができない。ひとつの作品内であっても、「あれ、いまなんの話だっけ?」と、頭の中に「?」が繰り返し現れたのは筆者だけではないと思う。  そうなってしまう理由のひとつが、突如として変わる「視点」である。本作には“節”を表す「§(セクションマーク)」が頻繁に登場し、その度に話題は思わぬところへと飛躍する。しかも飛躍するうえ、その飛躍の瞬間には、やがて行き着くであろう着地点の見当がつかない。この「飛躍」とは、ときに“ある誰か”から“別の誰か”への視点の転換であり、そのたびごとに、私たちは活字の森をさまようことになる。そしてようやく着地点である足元(=ストーリーライン)が見えてきたかと思いきや、また飛躍。しかもときには、「§」で節が変わるごとに、ふいにポエムや、戯曲が挿入されていることもある。後者にかんしては、「男が舞台奥から歩いてくる」だとか「ーー暗転」などといった“ト書き”まで記されているのだ。もうここまでくると、“難解な読み物”というような気さえしてくるものである。  そのようにして、物語がどうにも要領を得なかったり、登場人物の不明瞭さが際立っていたりもするのだが、ページをめくるごとに、すこしずつ点と点が結びついてくるような手応えがある。それを可能なものにしているのが、藤田作品特有の「リフレイン」という手法だ。  この「リフレイン」とは、つまり“反復・繰り返し”のこと。藤田は演劇作品において、このリフレインを執拗なまでに用いることで知られている。あるひとつのシーンを別の角度からリフレインさせることによって、見えてくる景色はまるで違う。たとえば『綿毛のような』に描かれている、別れ話を展開する一組のカップル。冒頭では女性の視点で描かれているが、このシーンが物語の中盤あたりでリフレインするとき、それは男性の視点に切り替わっている。包丁を握る女と、その刃先を向けられる男ーー当然ながら彼らの見ている景色はまったく違うだろう。  この『綿毛のような』に関していえば、描かれているのはカップルの物語だけではない。ほかにも多くの人物たちが登場し、“節”ごとに足早に“主体=視点の持ち主”が変わっていく。すこし乱暴な言い方をすると、それはまるでいくつもの掌編小説をごちゃまぜにしたようなものだ。あるいは異なる物語の“コラージュ”ともいえるだろう。これが本作を難しい読み物としている点かもしれないが、これこそが本作の特色であり面白さである。そもそも本作に収められている作品は、それぞれに何か明確な答えが用意されているわけではない。演劇作品に唯一の解がないように、それは小説においても同じことだろう。  先に記したように、演劇での藤田作品同様に、本作にも「リフレイン」が活きている。一見して脈絡のないように思える文章もこのリフレインによって、描かれている物語が同じ世界、、同じ時間軸で起きているものだと着地する。活字から立ち上がってくる5つの物語は、読者それぞれの脳内で異なるカタチで“上演”されることだろう。劇場の規模や作品のテーマにあわせ、つねに表現方法をアップデートさせる藤田作品らしい小説集なのである。  本作の帯文には、各物語の印象的なセリフが引用されている。「こんな時代になるとはね」「わたし、こんな時代に生まれなければどんなによかったとおもう」「死ぬか、わたしが死ぬか、選べ」、“ーーもう何か月も外へでていない。”、「わからないことだらけだね」ーーこのコロナ禍に出版されたものとあって、示唆に富んだものが引かれている印象だ。これらが言葉と物語のリフレインによって、読者にはより印象づけられることにもなるだろう。  そして藤田の文体は、長大なセンテンスで綴られる文体で知られる金井美恵子の小説をどこか思わせる。藤田作品は金井作品とは反対に、句点がとにかく多く、センテンスがきわめて短い。これは文章が持つ、その瞬間瞬間に感じられる、刹那的な効果を意図的に押し出しているもののように思える。これが金井作品のように、“文章を読むことの愉しさ”そのものを私たちに味わわせてくれることだろう。

折田侑駿

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