これぞアメリカの魂「シボレー・コルベット・スティングレイ(C2)」
ヨーロッパの先達に挑戦状を
1962年9月、C2ことコルベット・スティングレイは、アメリカ車としては珍しく欧州の名門ショー「パリ・サロン」にて堂々のデビューを果たした。ちなみに同年のパリ・サロンではフェラーリから「250GTルッソ」も発表されるなど、本場ヨーロッパの最新スポーツカーがひしめくこのショーをお披露目の舞台に選んだことになる。 しかし、それはまさにダントフたちGM開発陣の自信の表れ。性能面でもデザイン面でも、ヨーロッパ製高級グラントゥリズモに負けないと自負していたのだろう。加えて「スティングレイ」のペットネームはスティングレイ・レーサーから採ったもので、誕生に至る経緯を如実に示していた。 フレームは初代C1と同じくペリメーター式で、ボディパネルの材質も初代と同様のFRP製とされたが、サスペンションは北米ビッグ3メーカー製量産モデルとしては初となる、4輪独立懸架としていた。また、エンジンの搭載位置を可能な限り後退させたフロント・ミッドシップとすることで、前後の重量配分にも充分に配慮されていた。加えてブレーキは発売当初4輪ともにドラムだったが、1965年モデルから4輪ディスクに格上げされている。 パワーユニットは、当初6気筒のみのラインナップでスタートダッシュに失敗した初代C1の教訓から、アメリカ人の魂もいうべきV8エンジンのみに限定。「スモールブロック(327立方インチ=5358cc)」はチューンの違いで250~340psの4種が設定された上に、レーシングユーズを見越したロチェスター社製ラムエア式燃料噴射モデル(SAE規格360ps)も用意された。 また1965年モデルからは、「ビッグブロック(396立方インチ=6489cc)」も設定。さらに67年モデルのビッグブロック版は427立方インチ(6999cc)まで拡大されるに至る。そしてボディタイプは、マコ・シャークに酷似したコンヴァーティブルに加え、先鋭的なファストバックスタイルのクーペも用意されることになった。 ちなみにデビューイヤーの63年式クーペは、「スプリットウィンドウ」と呼ばれる、中央で2分割されたリアウィンドウを採用したが、発売直後から後方視界の悪さが指摘され、翌64年モデル以降はセンターの仕切りを廃した一体型に変更されることになる。 そして当時の北米ビッグ3の慣習に従い、1967年には68年モデルとして三代目コルベットが誕生。結果として5年足らずしか生産されなかったC2だが、総生産数は11万7966台(クーペ45547台/コンヴァーティブル72419台)と、生産期間の短さを考慮すれば充分な成功と評されるべき成果を達成したのである。 モータージャーナリスト/カーヒストリアン(自動車歴史家) 【武田公実|Hiromi TAKEDA】 かつてロールス・ロイス/ベントレー、フェラーリの日本総代理店だったコーンズ&カンパニー・リミテッドで営業・広報を務めたのちイタリアに渡る。帰国後は旧ブガッティ社日本事務所、都内のクラシックカー専門店などで勤務ののち、自動車ライターとして活動。また「東京コンクール・デレガンス」「浅間ヒルクライム」などのイベントに加えて、私設博物館「ワクイミュージアム」にも立ち上げの段階から関与。現在では英国車ブリストルの研究・販売を行う「ブリストル研究所(東京都文京区)」にて、主任研究員も務めている。
文と写真= 武田公実 写真= General Motors
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