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赤十字を作った男・アンリー・デュナン、波乱の生涯

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PHP Online 衆知(歴史街道)

世界の苦しむ人を、分け隔てなく救うために…

スイス・ジュネーブの裕福な家庭に生まれた青年は、北イタリアに赴き、戦争で傷ついた人々が、街で放置されている状況に遭遇する。「みんな兄弟」と救護にあたった青年は、やがて、ある組織の設立を世に問う。アンリー・デュナン、「赤十字」を設立した男が送った波乱の生涯。 鷹橋 忍(作家) 昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『滅亡から読みとく日本史』などがある。

旅人にすぎなかった「白服の紳士」が…

災害や病気などで苦しむ人々を救うため、世界中で活動し、紛争地においては、敵味方の区別なく負傷者を救護する赤十字。 その赤十字が、3つの機関から成り立っているのを、ご存じだろうか。 紛争地に特化して人道支援を行なう赤十字国際委員会(ICRC)、主に国内で医療および自然災害の分野において活動する「各国の赤十字・赤新月社」、各国の赤十字社・赤新月社の連合組織である「国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)」の3つである。これらの機関の総称が「国際赤十字」だ。 では、赤十字を作ったのは、誰か。 日本では「ナイチンゲール」と誤解されていた時期があった。しかし、赤十字の創設者は、ナイチンゲールよりも8歳年下の、ジャン・アンリー・デュナンというスイス人男性である。 デュナンは1828年5月8日、スイス・ジュネーブの裕福な家庭に生まれた。 ジュネーブは16世紀半ばに、福音主義を唱えるカルバンを招き、スイスにおける宗教改革の中心となった街である。デュナンの両親も、敬虔で、慈悲深いカルバン派であった。 特に母親は、大勢の孤児を自邸に招いたり、幼いデュナンを連れて貧しい人や病人のもとを訪問したりと、福祉活動に熱心であった。母の影響を受け、デュナンも奉仕的な精神をもつ少年へと育っていった。 カルバン学校を中途退学したデュナンは銀行に就職し、1853年、25歳の時に、当時、フランスの植民地であったアルジェリアへと出張で出かけた。 そこでデュナンはアルジェリアへの博愛精神に目覚める。「事業を立ち上げてアルジェリアの人々に職を与え、たっぷりと給料を払って、幸せになって貰おう」と思い立ち、翌年、銀行を退職し、製粉会社をスタートさせた。 出資を募り、最新式の水車や、現代でも使用できるほどの高性能な製粉機を揃えた。しかし、水利権が得られず、経営は泥沼化していったのだ。 ここで手を引くという選択肢もあったが、デュナンは事業を拡大することで、この難局を乗り越えると決意。さらに借金を重ね、ジュネーブやパリの投機市場にまで手を出していく。 ところが、何度出願しても、水利権の許可は下りなかった。 このうえはフランス皇帝ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)への嘆願しかないと、デュナンは考えた。突飛に思える発想だが、ためらいなく、そういった行動に出られる性格であったのだろう。 デュナンはナポレオン3世に直訴するために、北イタリアを目指した。当時、イタリアでは統一戦争の最中であり、イタリア独立を支持するナポレオン三世は、フランス・サルディニア連合軍を率いて、オーストリア軍と北イタリアで戦争を行なっていたのだ。 1859年、白いスーツを身にまとったデュナンは、北イタリアのカスティリオーネに到着した。 そこで目にしたのは、街が死体に覆い尽くされ、何千人という数の負傷者が、血まみれで放置されている光景だった。 デュナンが到着した前日、カスティリオーネから東へ5キロ先のソルフェリーノで、ナポレオン3世指揮下の8万のフランス軍と、フランツ・ヨーゼフ皇帝指揮下の9万のオーストリア軍が対戦した「ソルフェリーノの戦い」が繰り広げられていた。戦いはフランス軍が勝利したが、両軍の死傷者は4万人を超えたという。 デュナンは医療の知識も設備も持ち合わせてはいなかったが、近所の人や旅行者をかき集め、必死で救護にあたった。 傷口を洗い、包帯を巻き、泉から飲み水をくんできた。フランス兵も、サルディニア兵も、敵国であるオーストリアの兵も混じっていたが、デュナンはイタリア語で「みんな兄弟」と繰り返し、傷病兵を敵味方の区別なく救護したのだ。 ただの旅人にすぎないデュナンの指示に誰もが従い、デュナンの権限を問いただす者は一人もいなかったという。傷病兵たちはデュナンを「白服の紳士」と呼んだ。

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