恋人との結婚を強行して“狂った斎院”と呼ばれた内親王 道長の孫とひ孫が起こしたスキャンダルの結末は?
■恋しい人と結ばれるために“既成事実”をつくる 内親王の結婚というのは、いつの時代も人々の耳目を集めるものである。それは、約1000年前の日本でも変わらなかったらしい。 大河ドラマ『光る君へ』で再びその存在感を示した藤原道長は、娘3人を天皇の后にし、外戚としての権力を確固たるものにした。今回ご紹介するのは、道長の孫やひ孫たちの代に起きた“結婚強行事件”である。 主人公は後朱雀天皇の第2皇女・娟子(けんし)内親王だ。父の後朱雀天皇は、一条天皇と彰子の間に生まれた皇子である。そして母の皇后・禎子内親王は、三条天皇と妍子の間に生まれた内親王だった。つまり、娟子内親王は道長の孫同士の夫婦を両親にもち、ひ孫にあたる人物だった。 父の後朱雀天皇が即位すると、姉の良子内親王は伊勢斎宮、そして娟子内親王は賀茂斎院に卜定された。賀茂斎院とは、賀茂御祖神社(下鴨神社)及び賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両方における祭祀に奉仕する役職で、未婚の内親王あるいは女王から選出された。長暦元年(1037)、娟子内親王は初斎院入りする。この時数えでわずか6歳だった。 寛徳2年(1045)、後朱雀天皇が後冷泉天皇に譲位し、太上天皇となった2日後に崩御すると、娟子内親王も退下することになった。約8年の務めを終えた娟子内親王は14歳になっていた。 その後、娟子内親王は母の禎子内親王のもとで暮らすようになる。斎宮も斎院も、ほとんどは退下後も生涯独身だったため、結婚の話もあまりなかった。ところが、天喜5年(1057)、娟子内親王が26歳のときに、3歳年下の源俊房と密通していることが判明したのである。 お相手の源俊房もまた、高貴な血を引く貴公子だった。父は右大臣・源師房で、道長の長男・頼通の正妻だった隆姫女王の弟である。しかも、俊房の母は道長の五女・尊子だった。つまり、俊房は道長の孫にあたる。ちなみに、俊房は頼通の養子になって元服しており、天喜5年(1057)の時点で参議の地位にまで出世していた。 元斎院の内親王と、摂関家に連なる者として着実に昇進を続ける期待の若者の熱愛は宮中の人々を驚かせた。しかも、『栄花物語』や『本朝世紀』などによると、娟子内親王は密かに俊房の屋敷へ行き、俊房も娟子内親王を迎え入れてそこで夫婦の契りを交わしてしまうのである。いわば、許されない恋からの結婚強行である。 天皇の勅許を得ないまま夫婦になったこの事件に対して、当然後冷泉天皇は怒り心頭だった。とはいえ、俊房は摂関家の人間だったことから重い罰を与えることはできず、謹慎を申し付けるに留まっている。しかも、謹慎がとけた後には再び出世街道に戻った。そして、娟子内親王の降嫁についてもしばらく経ってから追認するしかなかったのである。 父の後冷泉天皇同様、娟子内親王の弟である東宮・尊仁親王もこの事件に対して怒りを露わにした1人だった。『栄花物語』によれば、尊仁親王は俊房を厳しく処罰することを望み、母の禎子内親王に対しても、「姉とはもう文のやりとりをしないように」と、母娘間のやりとりを禁じたという。さらに、『古事談』によると、尊仁親王が後三条天皇として即位すると、それまで順調だった俊房の出世は一時期停滞した。 娟子内親王に対しては、「皇女ともあろう方が出奔して恋人のところに駆け込むとは……その上勅許も得ずに結婚を強行するとは……」と周囲が困惑し、やがて「狂斎院」という不名誉なあだ名で呼ばれるようになったという。俊房との間に子はできなかったが、俊房が妾を幾人ももうけて子をなしていくなかでも、終生正妻として大事にされていたらしい。宮中を騒がせたスキャンダルは、本人たちにとっては幸せな形で幕を閉じたのだった。
歴史人編集部