2人の伯父を戦争で失った高校教師は毎朝、墓前に花を供える。「多くの命が失われたことを忘れず、平和と家族を守る」と誓う 12月8日、真珠湾攻撃から83年
太平洋戦争で伯父2人を失った高校教員、岩崎昌弘さん(53)=鹿児島市西俣町=は毎朝、自宅近くの墓に花を供える。数え年で22歳と33歳。「家の手伝いをする働き者」「学業優秀で文武両道」という2人の話は戦後、親族や近所の住民からもよく聞いていた。日米開戦の発端となった旧日本軍による真珠湾攻撃から8日で83年。岩崎さんは「伯父の犠牲は何だったのか。戦争で敵味方の多くの命が失われたことを忘れず、今の平和と家族を守り続けたい」と不戦を誓う。 海に眠る「紫電改」、終戦80年の来年こそ引き揚げを 出水の有志が寄付を呼びかけ、既に300万円集まる
岩崎さんは9月21日、旧陸軍が拠点としていた菊池飛行場があった熊本県菊池市泗水町を訪ねた。教育飛行隊の指導教官だった伯父の景清さん=享年(22)=は80年前のその日、墜落死した。エンジンからの異音に気付いて整備を受けたが、再度飛び立った際に機体が炎上し墜落したという。 長年気にかけていた墜落現場が分かったのは今年4月だった。以前訪ねた「菊池飛行場ミュージアム」の運営団体から、90代の住民を紹介された。国民学校6年だった当時、墜落を知って駆け付けたが、憲兵に遮られたというその男性は「木がなぎ倒された跡があった」と証言し、ある場所を指さしたという。 岩崎さんは今はスギ林となった墜落現場で初めて、遺影を置いて花を手向け、手を合わせることができた。その日は40年余り前に病死した父景秋さんの命日でもあった。 景清さんが墜落死した2カ月前には、もう一人の伯父景男さん=享年(33)=が西太平洋の激戦地サイパン島の戦いで命を落としていた。海軍に入って軍艦に乗り組み、最後は警備隊としてサイパンに赴いた。岩崎さんが現在暮らす実家には、当時の写真など遺品も残る。
今年は2人の戦死からちょうど80年の節目にあたる。「家族全体が戦争によって苦しみを受けた。相次いで息子を失った母親の落胆、辛苦はいかばかりだったか」とおもんぱかる。来年は戦後80年を迎える。「パイロットや水兵は、当時の青年の憧れだった。戦争はそのような純粋な気持ちも一瞬にして消し去る。2人の死は何だったのか。この犠牲はいつになっても忘れてはいけない」
南日本新聞 | 鹿児島
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