潘基文国連事務総長の「国連は中立ではない」発言は妥当なのか
国連の「中立性」概念の変遷
潘基文氏の発言は、何を意味しているのだろうか。実は、国連が中立(neutural)ではなく公平・不偏(impartial)であるという考え方自体は、国連の平和維持活動(PKO)という文脈では、現在の国連文書にも書かれている主流の考え方だ。 従来国連のPKOは、いずれの当事者にも肩入れしないこと、つまり「中立性」が重視されてきた。冷戦中のPKOの主な活動は停戦監視であり、どの紛争当事者にも偏らず中立でいることが、PKO成功の鍵とみなされてきた。 しかし、冷戦が終結し、1990年代に入り多発した民族紛争に対し、国連PKOは「中立性」原則では、全く対応できないことを露呈した。特に、1994年に数十万人が殺害されたルワンダ大虐殺と、1995年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか起きたスレブレニツァの虐殺に対して、国連PKOは現場近くにいたにも関わらず、虐殺阻止に全く無力だったことが強く批判された。 そこで、国連PKOは、虐殺や民族浄化を防ぐためには「中立性」原則を捨て、文民保護というPKOの任務遂行のためには、妨害要因を積極的に排除することも辞さないという方針に変化した。これが、現在の国連PKOにおける公正・不偏(impartiality)である。2000年代に入り、PKOに関する国連文書から「中立性」という言葉は消え、2008年1月に発表された「国連PKO 原則と指針」では「impartialityは中立性や不作為と混同すべきではない」と述べられるようになった。 国連PKO活動における文脈では、潘基文氏がCCTVに語った言葉自体は、間違っていないと言える。
軍事パレード出席での「中立性」言及は極めて異例
しかし、中国の「抗日戦勝70周年記念」の式典と軍事パレードは、国連の平和維持活動ではない。国連が「中立性」の原則を捨てたのは、いま発生する民族浄化や虐殺から文民を保護するためではなかったのか。中立性を捨て、軍事パレードに出席して誰が死や苦痛から免れるのだろう。1990年代後半になって出現した「国連が中立ではない」という言葉を、70年以上前の第二次世界大戦に対して使うことは、極めて異例といえる。