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《健康長寿とヤクザの出世》“集団指導体制”の山口組で、なぜ司組長が6代目を継ぐことになったのか?

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文春オンライン

10億円の保釈金を2度も払って保釈された司

 滝沢は逃亡を続けたが、2001年7月に栃木県内で逮捕される。滝沢をめぐる裁判は1、2審で無罪となるなど紆余曲折を経るなかで病気を患い、2018年5月、大阪高裁で差し戻し控訴審判決が言い渡される予定だった日に滝沢は死去した。80歳だった。  司も1998年6月に逮捕、起訴されるが、1999年7月に10億円の保釈金で保釈。さらに2004年2月に大阪高裁で懲役6年の判決を受けたが、やはり10億円の保釈金で即日保釈され、上告した。  その時点で、その後の裁判は残っていたものの健康で、組内での統率力を維持していた山口組最高幹部は司だけになっていた。  警察幹部が、当時の山口組最高幹部の状況を振り返る。 「そもそも宅見もガンに侵されており、余命はさほど長くないとされていた。必要性がどこまであったかは不明だが、それでも中野会は殺害した。山健組の桑田もかなり重い肝臓病だった。そこで山健組を(現神戸山口組組長の)井上(邦雄)に譲り、間もなく死亡した。滝沢は銃刀法違反事件で、全国各地で逃亡生活をしていただけでなく、桑田同様に病気が重く、事実上、引退のようなものだった」  司は、2005年5月に5代目山口組若頭、同年7月に6代目山口組組長に就任することになる。 「当時の最高幹部たちの中で、司は比較的年齢が若く、何よりも体が健康だった。当時から筋トレを欠かさないとか、健康維持に気を使っていた。特に6代目に就任して以降は、酒の飲みすぎで健康に不安のある直参に対して引退を要望するなど、健康への自分なりの考えがあった。司が執行部入りしたころの有力な先輩たちが殺害されたり、病死したことも、司の6代目就任への道が開けたとも言える。運も大きかったのではないか」(同前)

体制固めは「ツートップ独占」だけではない

 6代目組長となる司は、弘道会でツートップを独占した他にも、自身の体制を固める異例の人事を行っている。  これまで、ひとつの傘下組織から「直参」と呼ばれる直系組長に取り立てられるのは1人のみ、というのが慣習だった。  しかし司は2005年、「弘道会」会長を同会若頭だった高山に譲り、自らは総裁を名乗り、以前に所属していた「弘田組」を再興させ、同組長に就任してしまう。  司は当時山口組若頭補佐だったが、高山を2代目弘道会会長として直参と呼ばれる山口組直系組長に引き上げたのだ。司が別の「弘田組」組長を名乗ったとはいえ事実上、弘道会から2人の直参が登用されることになった。  そして、弘道会支配の布石を着々と打った司と高山による人事上の戦略をさらに加速し、2005年8月8日、高山の山口組若頭への就任が決定、同月27日には司が6代目山口組組長に正式に就任。山口組内の前例や慣習を打ち破ったというより、全く無視した人事を断行することになる。  長年にわたり山口組をはじめとする暴力団情勢をウオッチしてきた警察幹部が指摘する。 「これまでの山口組は、組長が代替わりするなど大きな節目となると、跡目をめぐって組内の有力組織の間で対立が生まれ、内部抗争を起こしてきた。それをよく知っている司と高山は、強権体制を確立してこれを抑え込む必要があると考えていたのではないか。このため組長、若頭のツートップを独占する必要があったと推測できる。これは山口組の歴史上、前例のない人事だった」  当時、この人事を目の当たりにした山口組系幹部は、次のように振り返る。 「弘道会の高山さんといえば、誰でも知っている業界では有名な人だったことは間違いない。当然いつかは直参に取り立てられるだろうと思っていたが、2代目弘道会を継いで(山口組)本家の若い衆になったと思えば、あっという間に(若)頭補佐になり、さらに(若)頭になった」  司と高山は、さらなる強権体制を築くため、手を緩めていない。  2013年には3代目弘道会会長に竹内照明が就任し、山口組直参に昇格。15年には若頭補佐となっており、現在では事実上、山口組最高幹部に弘道会出身者が3人となっている。「弘道会支配」は、いまもなお強化され続けているのだ。(敬称略) 「敵対幹部をあえて出世させて…」山口組“超武闘派”高山若頭が名門・山健組を切り崩した“智謀人事”とは? へ続く

尾島 正洋/Webオリジナル(特集班)

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