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優しい言葉を掛けてくれた稲尾和久監督で思い出すのは“我慢する姿”/伊原春樹コラム

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週刊ベースボールONLINE

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年6月号では選手時代の監督に関してつづってもらった。 稲尾和久「神様や仏様と並び称された鉄腕が投げまくった理由」/プロ野球20世紀の男たち

負けが込んでも声を荒げることはない

「これが『神様、仏様、稲尾様』か」と感慨深くなったものだ。1971年、芝浦工大からドラフト2位で西鉄ライオンズに入団した私の目の前に稲尾和久監督が立っていた。通算276勝をマークした大エース。鉄腕と呼ばれた大投手のプレーがまざまざと頭によみがえった。58年、巨人との日本シリーズだ。私は小学4年生だったと思う。先生が特別に教室のテレビで日本シリーズ第5戦を流してくれた。西鉄は3連敗を喫するも第4戦に勝利し、1勝3敗としたが後がない状況。2対3で迎えた9回裏、西鉄は二死三塁から関口清治さんが起死回生の同点打。そして、10回裏、だ。打席に立った稲尾さんの放った打球は左翼席へ。劇的なサヨナラ本塁打で西鉄に勝利を呼び込んだ。稲尾さんはこの試合、第4戦に続き完投勝利も遂げた。さらに、第6、第7戦でも完投勝利。見事に3連敗から4連勝の大逆転日本一の立役者となった。  そんなレジェンドの下でプレーすることになったのだが、寮で初めて顔を合わせ、握手したときの印象が深く残っている。とにかく、手がゴツイのだ。「この手で、数々の大記録を作り上げたのか……」。気持ちが自然と高揚したのを覚えている。しかし、稲尾監督は私と12歳しか変わらないから、当時は33歳だったのだ。私が入団する前年、監督となっていたが32歳での監督専任は史上最年少だったという。非常に貫禄があったからそうは思えなかったが、今考えるとまだ若かった。  ただ、シーズンに入ると思い出すのは稲尾監督の“我慢する姿”だけだ。前年、“黒い霧事件”が起こり、主力選手が抜けチーム力は低下。誰が監督をやっても勝てる戦力ではなかった。例えば投手では東尾修を抜擢して先発で投げ続けさせた。70年は11勝18敗、71年は8勝16敗。負けても、負けてもマウンドに上げた。だが、稲尾さんはどんなに負けが込んでも声を荒げることはなかった。“忍”の一字。かつて覇を争った南海や歯牙にもかけなかった阪急にかなわない。かつて黄金時代を経験し、思うところもあっただろうが、とにかく稲尾監督は耐えていた。  私は稲尾監督に優しい言葉を掛けられた記憶しかない。覚えているのは2年目のことだ。三塁を守っていた私は小倉球場で1試合2失策を犯した。2つ目はタイムリーエラー。ひどいヤジも飛んで、稲尾監督は「これじゃあダメだ」となったのだろう。交代を球審に告げた。すると三塁側のスタンドにいるファンが「良かった、良かった」と言いながら手をたたく。ベンチに引き揚げた私は悔しくて、悔しくて、涙が自然と頬を伝った。すると稲尾監督から「伊原、お前、シュンとしているじゃないぞ」という声が飛んだ。決して選手を孤独にさせることはなかった。

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