“勇気”を武器に低迷する大洋でチームを支えたヒゲのタフネス右腕とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977~93年】
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
王の755号を阻んだ新人
1978年に横浜へ移転して、93年に横浜ベイスターズとなった“横浜大洋ホエールズ”をエースとして支え続けた遠藤一彦については紹介したばかりだが、この当時の低迷する大洋で、貴重な勝ちゲームの終盤にファンの期待を一身に背負っていたのが斉藤明夫(明雄)だった。遠藤は“横浜大洋”の歴史と歩みをそろえた15年の現役生活を過ごしたが、斉藤のキャリアは遠藤より2年だけ長い。遠藤が入団する1年前、まだ本拠地を川崎球場に置いていた77年に入団して、ベイスターズ元年の93年いっぱいで引退。“横浜大洋”の象徴が遠藤なら、斉藤は過渡期のチームを象徴する存在だったといえる。 1年目の77年に斉藤は新人王に輝いたが、その77年のプロ野球、特にセ・リーグの主役は斉藤ではない。巨人の王貞治だった。王は前年にベーブ・ルース(ヤンキースほか)の通算714本塁打を超え、ハンク・アーロン(ブレーブスほか)の通算755本塁打という世界の頂点に迫りつつあった。王が通算754号で迎えた8月30日、後楽園球場で、王に立ちはだかったのが新人の斉藤。誰もが王が世界の頂に並ぶことを期待する中で、斉藤は王に対して4打数1安打1四球、本塁打を阻止して、プロ初完封を収めた。 新人王は巨人の西本聖、ヤクルトの梶間健一らとの争いだったが、最終的にはシーズン8勝の斉藤が新人王となったのは、この試合で王を封じたことが決め手だったともいわれる。「王さんを3度もイニングの先頭で迎えられたので思い切って勝負できた」と斉藤。ただ、のちの斉藤を知っていると、この言葉は謙遜にも思える。この1年目はなかったが、いつしか口ヒゲがトレードマークに。マウンドに仁王立ちして、時には打者をからかうような仕草も見せるなど、ふてぶてしいマウンドさばき。そんな豪傑のような風貌から、意表を突くように遅いカーブを投げ込んだ。 「遅い球を、いかにコントロールするか、というのには勇気がいる。勇気を持って投げることが大事」と斉藤。この言葉は斉藤らしく思える。球種は、ストレートとカーブの2種類。それでも、握りや腕の角度などの微妙な違いでカーブの曲がりに変化をつけ、さらにスピードを調節することで打者を翻弄した。打者を外角に踏み込ませないため、時には打者の近くまで来てから曲がるカーブで脅かすことも。それでも死球になることは多くなかった。支えとなっていたのは、絶対の自信を持っていたのが制球力。加えて、「打たれたって3割だろ。7割は打ち損じ」(斉藤)という“勇気”だった。