電車かバスか?川崎を走った「トロバス」の軌跡 わずか16年で姿を消した工場地帯の「通勤の足」
トロリーバスは、道路事情の変化の影響も受けた。前後に運転席のある市電と異なり、トロリーバスは運転席が前方のみのため、起終点ではUターンする必要があった。 だが、川崎駅付近の道路混雑が激しくなると、起点の古川通(小美屋デパート前=現・川崎ダイス前)でのUターンが困難となり、1962年11月からは、川崎駅付近を両回りの循環線(川崎駅前―大島四丁目間)とする、テニスのラケット状の経路を走るようになった。さらに1964年10月には、終点側が鋼管水江製鉄前まで延伸され、路線長が最長となった。
架線からの集電によらず、補助動力で走行する区間が存在したことにも触れておくべきであろう。1964年3月に塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業し、浜川崎駅と塩浜操駅間を結ぶ国鉄貨物線が開業すると、池上新田付近で、当時は地上を走っていた貨物線(1500V)とトロリーバス(600V)の異電圧平面交差の問題が生じ、トロリーバス側の架線を切断することになった。 この架線のない区間を、トロリーバスは新たに搭載したバッテリーを動力として走行することになった。具体的には国鉄貨物線との交差の手前で運転席の操作でトロリーポールを下げ、バッテリー走行で貨物線の踏切を越える。その後、再びポールを上げてゆっくり走行すると「ポールはガイドにつれて架線に入る」(『川崎市無軌条電車』吉川文夫)という仕組みだった。
同様の問題は他のトロリーバスでも発生し、東京都ではディーゼルエンジンを積んで対処したという。いずれにせよ、車体重量が増加するため、経済性が悪くなった。 ■16年で廃止、今も残る車両 このように市街地と臨海工業地帯を結び、工業都市・川崎の通勤需要を支えたトロリーバスだったが、活躍した期間は短かった。レールがないとはいえ、架線に沿って進まなければならず、渋滞時に小回りが利かないのは市電と同様であり、また、ディーゼルバスの発達により、動力費における優位性もなくなった。さらに、張り巡らされた架線が、高層化する建物の消防活動の妨げになるおそれも生じた。