電車かバスか?川崎を走った「トロバス」の軌跡 わずか16年で姿を消した工場地帯の「通勤の足」
その理由の1つは当時の燃料事情にあった。戦前、戦中と石油の輸入を断たれて苦しい思いをした我が国の燃料事情は、今後もどうなるかは分からなかった。当時はガソリン不足のため、代燃車がまだ残っていた。代燃車とは木炭・薪・石炭などの代用燃料で走るバスのこと。一部では、戦前から代燃車の一種として電気バスの研究・実用化も進められた。 当時の状況について、神奈川中央交通のホームページには「戦中戦後の石油燃料の欠乏期には、大いに活躍した代燃車でしたが、戦後徐々に姿を消し、当社においても昭和27年の初頭に代燃車を全廃しました」と、戦後もしばらくの間、代燃車が使われていたことが記されている。
このような事情から、アメリカをはじめ海外での実績があり、動力費の安いトロリーバスが注目されたのだ。また、軌道が不要なトロリーバスは設備投資の面でも有利であり、日本の狭い道路事情からしても、市電よりもふさわしいと思われた。こうしたことから、GHQもトロリーバスの導入を強く指導したという。 だが、実際に導入してみると、デコボコな道路やカーブでは架線からトロリーポールが外れやすく、乗務員泣かせな乗り物だった。
■架線を張れない踏切、どうやって越えた? 川崎のトロリーバスは1951年3月、川崎駅前から中島一丁目、大島四丁目、池上新田を経由して桜本に至る3.65kmで開業した。ところが翌1952年1月、京急大師線の塩浜―池上新田―桜本間を川崎市が買収し、川崎市電の路線に組み込んだことから、池上新田―桜本間で市営交通が重複することになり、トロリーバスの終点は池上新田寄りに移設された。 1954年8月には、埋め立て地の水江町までの延伸が果たされた(池上新田―日立造船前間1.8km)。当初、水江町地区には、日立造船川崎工場があっただけで従業員数も少なかったが、日立造船工場の拡張と他社工場の建設が進められ、「同地区からの路線延長要望が強く」(『市営交通40年のあゆみ』川崎市交通局)延伸が実現したのである。