「大奥」創設に関与か、徳川将軍正室の侍女「椿井紀伊」の墓碑発見 京都の墓地
江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室、江の侍女を勤め、江戸城の「大奥」設立にも大きく関係したとされる椿井紀伊の墓碑が京都府木津川市山城町椿井で見つかった。地元住民でつくる「山城町ふるさと案内人の会」が整備を進める古い墓地の中にあり、専門家が碑文などから確認。「波乱の戦国期を生きた紀伊の功績と山城町をつなぐ非常に重要な資料」としている。 【写真】整備された「椿井家墓地」 椿井紀伊は、現在の山城町周辺を本拠とし、戦国時代の「山城国一揆」にも参加した国人、椿井氏の出身。戦国大名浅井長政の三女江に7歳から仕えた。将軍の正室となった江が亡くなった後は秀忠に仕え、江戸城本丸で奉公する女中の勤務規定となる「女中法度」を定めた、とする文書が残っている。後の大奥の制度につながる初期の法整備に関わったとみられる。 今回の墓碑は、山城町椿井の竹やぶ内に、近くの場所から移された古い墓石群の中から見つかった。来歴は定かではないが椿井氏と関係があると伝わっていた。「案内人の会」が2021年から一帯を墓地として整備し、中京大の馬部隆弘教授(日本中世史・近世史)と、大阪大谷大の狭川真一教授(宗教考古学)が調査。36基のうち26基に、年代や名前などが刻まれているのを確認できた。記述から椿井氏ゆかりの墓とみられ、天正3(1575)年から元禄6(1693)年までのものがあった。 このうち一つが舟形五輪塔で、寛永7(1630)年9月28日付で「高徳院喜月智慶禅定尼」と刻まれていた。椿井氏の本拠地に近く、紀伊が出家後に名乗ったとされる「高徳院」と一致することなどから、紀伊のものと判断したという。 馬部教授は「戦国時代の墓碑が残っていることは珍しく、指定文化財として十分な価値がある。きちんと守り残して、次代に歴史を伝えていくべきもの」と意義を説明。案内人の会の辻忠会長は「一人でも多くの人に椿井紀伊のことを知ってもらうための一歩だと思う」と話した。