大谷やキャメロン・ディアスを撮影する写真家、俵山忠 雑誌編集からビルボードを飾るまでの道
その後、枻出版社へ移籍し、米国に住み仕事のできるビザをサポートしてもらい、2000年22歳の時にロサンゼルスに移住しました。振り返ると、人との繋がりの先に米国移住があったという感じですね。フィルム写真、スケート、音楽、そしてバイク、自分の中の「海外のカッコいい」を感じられる全てがLAにはそろっていたのです。
水嶋:時期は異なりますが、私は所さんのスタイリングを担当していたことがあるので、今こうして俵山さんとロサンゼルスでご一緒することに縁を感じます。人生のターニングポイントはいつでしたか?
俵山:人との出会いや経験、全てが人生のターニングポイントだった気がします。やってみたいことはすぐに行動に移すので、僕の人生はターニングポイントだらけですね。フォトグラファーとしての転機は、25歳の時に雑誌「ライトニング」の表紙を撮影したとき、そして32歳で自分の作品がビルボードデビューしたときです。
編集時代の先輩がのちに「ライトニング」編集長に就任し、僕の米国移住の際に写真撮影に必要なものを一式プレゼントしてくれ、後にロサンゼルスでのイベント撮影の仕事を依頼してくださいました。その際、編集としてだけではなく、いただいたフィルムカメラでカメラマンとしても稼働したんです。ロサンゼルスでの初めての仕事が表紙に採用されました。書店に並ぶ雑誌を見て、この仕事を続けていきたいと思ったのを今でも覚えています。ロサンゼルスには日本から有能なカメラマンが大勢撮影に訪れます。現地で彼らのアシスタントをする機会も多く、人と環境に恵まれていましたね。
ビルボードに自分の作品が掲載された時も同様です。日本から写真界の巨匠ケイ・オガタさんをお招きし、女優のキャメロン・ディアスさんを起用したソフトバンクの広告撮影でした。3日間に及ぶ大規模な撮影の中、3日目に多忙なスケジュールで動いていたケイさんは次の海外の現場へ、僕はその撮影でスナップ写真を任されました。1、2日目でケイさんが担当していたメインスチールの撮影は終了しており、僕はCM撮影隊の邪魔にならないよう、そしてスチールチームの役に立てるように、大きな脚立を持参し必死にシャッターを切っていました。