【豊臣秀吉の子どものころ】お寺にあずけられるほど問題児だった農家の子どもが天下人に大変身!? 豊臣秀吉が見つけた世の渡り方!
歴史に名前をのこした人はどんな子ども時代を過ごしたのだろうか。もともと優秀な人物もいれば、大器晩成なんかとんでもない劣等生であった人物もいたはず。ここはそんな偉人の子ども時代にせまる! 今回は豊臣秀吉です。 ■イタズラ三昧で寺から追い出される 豊臣秀吉(とよとみひでよし)は1536年、尾張中村(おわりなかむら/現在の愛知県名古屋市)の農家に生まれたといわれています。 低い身分から出世して、一番えらい人である「太閤(たいこう)」まで上り詰めたことは、同時代に生きた庶民にとって、大きな励みになったことでしょう。しかし、秀吉もまた、多くの偉人がそうであったように、子どもの頃は優等生タイプではありませんでした。 秀吉の父は木下弥右衛門(きのしたやえもん)といい、農業をしつつも、織田信長(おだのぶなが)の父である信秀(のぶひで)から出陣の命を受ければ、“さむらい”として戦場で戦ったようです。戦場で受けた傷がきっかけで、弥右衛門は秀吉が7才のときに亡くなった……そんなふうにも伝えられています。 母の大政所(おおまんどころ)は筑阿弥(ちくあみ)という男性と再婚。秀吉は光明寺(こうみょうじ)というお寺に預けられることになりましたが、すぐに家に戻っています。 というのも、秀吉が寺で仏像を壊すなどいたずらばかりするので、寺も手におえず、家に帰されてしまったからです。 ■仕事が長続きせずに職を転々とした その後、秀吉は薪(まき)を刈ってる仕事をしたり、鍛冶師(かじし/金属を加工する人)に弟子入りしたりするなど、いくつもの職を転々とします。しかし、どれも長続きせず、結局、家に戻ってきてしまうのでした。 「このままでは息子はダメになってしまう」 そう心配した母から永楽銭一貫文を渡された秀吉。「これで身を立てるように」と言われて、家から追い出されてしまいます。現在の価値で、約10万円といったところでしょう。秀吉は15才にして、放浪の旅に出ることになります。 母からもらったお金で、秀吉が買ったのは「木綿針(もめんばり)」です。ちょうど絹や麻よりも丈夫な木綿が朝鮮から入ってきて、広く使われはじめたころでした。 顧客のニーズを読み取って、秀吉は木綿針を売り歩いては、食料品を買いながら、清州(現在の愛知県清須市)から東海道を東に下っていきました。 ■先輩や同僚のイジメがつらくて逃亡 ぶらぶらしながら、秀吉が目指したのは、駿府(現在の静岡県)の今川義元(いまがわよしもと)のところです。とりあえず力のある戦国大名に自分を売り込もうと、秀吉は考えたのです。そして、今川義元の家臣である松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えたとされています。 しかし、やっぱりここでも長続きはせずに、ふるさとへ帰ってしまいます。投げ出してばかりですが、このときは先輩や同僚からのいじめがあったようです。 戦国時代においても、仕事を続けていくうえでは、人間関係が大切。早々と見切りをつけた決断は、その後の秀吉の人生をみても正解だったといえるでしょう。 ■地元のツレの紹介で就職が決まる 故郷でぶらぶらしていた秀吉でしたが、無職になって地元に帰ると、大体、「お前、今、何してるの? ブラブラしてるなら、ウチ来いよ」と声をかけてくるような世話焼きがいるものです。 豊臣秀吉の伝記『太閤素生記(たいこうそせいき)』の記述によると、秀吉は、親友のツテで、信長のもとに仕えることになりました。知り合いがいれば、秀吉の前の職場のように、いじめに遭いにくいという利点もあります。 事実、秀吉も信長のもとでは長続きしました。持つべきものは、地元の友。信長のもとでの下積み時代といえば、秀吉が信長の草履(ぞうり)を懐(ふところ)で温めて、その気遣いから一目置かれるようになった、というエピソードは有名です。 さすがに出来過ぎた話でフィクションですが、それくらい信長に忠実に従ったということでしょう。実力次第でのし上がることができる織田家の「社風」が、秀吉にはぴったりでした。 自分らしくいられる場所をようやく見つけた秀吉は、大出世を果たしていくのでした。 【今回の教訓】環境を変えることで開ける道もある! 【参考文献】 『豊臣秀吉文書集』(吉川弘文館) 小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書) 鈴木良一『豊臣秀吉』(岩波新書) 日本史史料研究会『秀吉研究の最前線』 (歴史新書y)
真山知幸