GQ読者にすすめたい、2020年のベスト本3冊を発表!
『ドライブイン探訪』や『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』などの著書で知られ、読売新聞の読書委員も務めるライターの橋本倫史に、GQ読者に向けて2020年のベスト本3冊を選んでもらった。 【写真を見る】2020年の書籍ベスト3をチェック!
坪内祐三『玉電松原物語』(新潮社)
今年の年末年始は、帰省することはあきらめて、自宅で過ごすことに決めた人も多いだろう。懐かしい風景をこの目で見ることが叶わなくとも、活字を通して、かつてそこにあったはずの風景を味わうことができる。そんな1冊が『玉電松原物語』だ。 地方都市に生まれ育ったわたしは、「世田谷」と聞けば高級住宅地を連想する。しかし、「世田谷っ子」を自認する評論家・坪内祐三さんによれば、昭和30年代の世田谷は高級でも低級でもなく、「つまり、田舎だった」という。 表題にある「玉電松原」とは、かつて存在した駅の名前。現在では東急世田谷線として運行している路線は、かつて玉川電気鉄道(通称「玉電」)が運営しており、停留所のひとつに玉電松原駅があった。本書に綴られるのは、玉電松原駅の近くで少年時代を過ごした坪内さんによる町の記憶だ。 当時の玉電松原界隈には舗装された道路も少なく、畑や牧場が広がり、小川が流れていた。そんな「田舎」であっても、駅前には小さな商店街があり、菓子屋や八百屋、魚屋や鳥屋が並んでいた。「戦後つまり昭和三十年代四十年代五十年代の東京には、さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があったことを証明しておくために」、坪内さんは『玉電松原物語』を書いたのだという。東京だけでなく、全国の「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」はずだ。その意味で、『玉電松原物語』は、世田谷の小さな町の記録であると同時に、全国各地に存在していた風景とも通底するものがある。 坪内さんはかつて、「私は電信柱を次々とこわされていく犬だ」と綴っていた。見慣れた風景が消えていくことに憤りながらも、坪内さんは東京の街を歩き続け、移り変わる街並みとそこに宿る記憶を書き続けていた。そんな坪内さんが61歳で急逝したのは、2020年1月13日のことだった。コロナウイルスで激変する世界を前に、坪内さんならどんなことを書いただろうかと、そんなことばかり考えた1年だった。