寝ぼけてケガをしてついに引退【平野謙の「人生山あり谷あり、感謝あり」】
代打で新境地も
1995年のシーズンが終わって、バレンタインがGMの廣岡達朗さんとのゴタゴタもあって監督退任し、GMは廣岡さんのまま、監督が江尻(江尻亮)さんになりました。 契約更改で越年? まったく記憶にございません(笑)。単に順番じゃないですかね。誰かがゴネて僕が後回しになったとか……。たぶん、ガツンと下げられたとは思うけど、出番も減ってたし、もうもめる要因もなかったと思いますけどね。 コーチ兼任を外れ、また一選手になった年でもあります。勝負の1年? いや、現役終盤はずっとそうだったからね(笑)。いつも体が動く限り、もちろん、欲しいと言ってくれる球団がある限り現役を続けたいというのはありました。使ってもらえば、まだまだチームの役に立てる、という思いもあったしね。 あの年のロッテは、なかなか勝てなかったですね。それでシーズン後半くらいから、バレンタインのアメリカ流のやり方がよかったという選手たちが、廣岡さんのやり方と毒舌に反発し出した。伊良部(伊良部秀輝)が廣岡さんの批判をしたり、終盤戦になると、ファンも殺気立って味方をヤジっていたらしいですね。 こういうことって結果論というのかな。勝っていたら、そんな騒ぎにならなかったと思います。当時のロッテは前年の95年に2位にはなったけど、本当の意味で強くなったわけじゃない。こうだから勝った、こうだから負けた、というより、勢いで勝っていただけというかな。そういう戦いでは、なかなか何年も続かないんですよ。 ただ、正直、チームがもめていたことはほとんど知らなかった。僕の一軍最後の試合は6月1日のオリックス戦(神戸)で、バタバタしたときは、ずっと二軍でしたからね。 理由は僕自身です。新幹線で神戸から帰るとき、ずっと眠っていたんですけど、何の拍子か、寝ぼけて、椅子についているテーブルで右手の小指を挟んでしまった。いてえ、と思って病院に行ったら複雑骨折と。江尻さんには、「ゆっくり休め」と言われ、二軍に落ちたんですが、そのままケガが治っても上げてもらえなかった(笑)。復帰に向けての準備はしてたんですけどね。ただ、自分の不注意だし、仕方ない。のちのち、どこかで聞いていたらしく、久信(渡辺久信・西武)に大笑いされてしまいました(苦笑)。 しかも、あの年は、すごくバッティングの調子がよかったんですよ。結構、いいところでも打っていた。理由ですか? バットを短く持って積極的に行ったことかな。もともと短くは持っていて、追い込まれてからさらに短く持っていたんですが、あの年は最初から追い込まれたときと同じくらい短く持ち、しかも甘い球が来たらファーストストライクからでもガンガンいった。 これは代打が増えたこともあります。代打は1試合1打席ですし、次のチャンスをもらうためにも結果を出し続けなきゃいけない。意外とこの考え方が自分に合っていたのかもしれないですね。途中からは代打も楽しいなと思ってやってました。そうそう、あの年、代打でヒットを打って出塁すると、すぐ代走を出された。イメージもあって客席から「エーッ」という声が聞こえたけど、ベンチからしたら、もうポンコツと思っていたんだろうね(笑)