米も金もない戦後。食糧増産を狙った干拓事業、誰もが希望に燃えていた。今でもコシヒカリが実る光景を見ると胸が一杯になる〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊦〉
大浦干拓の仕事が終わり、その後は長崎に転勤し干拓事業に従事した。働きすぎたためか体を壊してしまい、42歳で退職することになった。地元の大浦に戻り、兄の会社を手伝いつつ、妻の実家がやっていた大浦唯一の文房具店を引き継いだ。9年前に店を閉めるまで続けた。妻も美容室を7年前まで開いていた。 大浦干拓での戦後の18年間は家族を養い、地元の大浦・笠沙のために死ぬ気で頑張った。大変だったがよくやったと思う。入植者たちも苦労したと思うが、大浦コシヒカリが豊かに実る干拓地を見ると毎年胸がいっぱいになる。 古里のためにと懸命に働いてきたが、近年、若者が都会に出て行き、過疎高齢化が進んでいる。自然が豊かで空気もいいが、空き家も増えた。終戦後、引き揚げ者らを含め多くの人でにぎわった町の面影はなく、寂しい限りだ。若い世代には干拓を何とか守ってほしいと願っている。 日本は今、平和でいい。戦争は地獄だ。ところがニュースを見ると今でもウクライナやガザで戦争が続いている。私の青春時代はずっと戦争だった。よく命があったと思う。戦争は駄目だ。戦場にいた人間なら誰でも分かる。あげんこつすっといかんと。
(2024年7月6日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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