冤罪晴れた元死刑囚、きっかけは刑務所で読んだ一冊の本だった
過去30年、「イノセンス(無罪)・プロジェクト」などの団体は、米国の司法制度がいかに危険な誤りを犯しうるかを明らかにしてきた。死刑が求刑される裁判では特にそうだ。 ギャラリー:無実の罪で死刑宣告を受けた人々の物語 1973年以降、DNA鑑定の実施などで無実が証明され、釈放された元死刑囚は182人にのぼる。ほかの刑も含めれば、1989年から2020年12月までに明らかになった冤罪事件は2700件以上もある。 カーク・ブラッズワースは1993年、DNA鑑定で冤罪が晴れた米国初の元死刑囚となった。逮捕されたのは1984年。メリーランド州で9歳の少女ドーン・ハミルトンをレイプし、殺害した罪に問われた。警察が作成した容疑者の似顔絵がテレビで放送され、ブラッズワースに似ていると匿名の通報があったのだ。 彼はその似顔絵にあまり似ていなかった。犯行を裏づける物証はなく、前科もなかったが、有罪となり、死刑が宣告された。決め手となったのは犯行現場の近くで彼を見かけたという5人の証言だが、そのなかには8歳と10歳の子どもも含まれていた。死刑情報センターによると、目撃者の誤認が多くの冤罪事件の一因になっている。 それから2年近くたって再審理が行われることになった。検察が被告人に有利になる可能性がある証拠を伏せていたことを理由に、弁護側が控訴したのだ。証拠とは、警察がもう一人の被疑者を特定していたものの、その手がかりを追跡するのを怠ったことだった。ブラッズワースは二審でも有罪になったが、今回は死刑ではなく、「2回の終身刑」を言い渡された。 「もう望みは断たれたと、落ち込みました。一生刑務所暮らしだと。そんなときに推理作家のジョゼフ・ウォンボーの本を読んだのです」。それは1989年に刊行された『ブラッディング』だった。当時まだ目新しい技術だったDNA鑑定について解説し、レイプ殺人事件で警察が初めてこの手法を用い、無実の容疑者の嫌疑を晴らし、真犯人を検挙するまでを、実話に基づいてつづった本だ。ブラッズワースはそれを読んで、自分の嫌疑も科学捜査で晴れるのではないかと考えた。 彼は、自分が犯行現場にいなかったことを証明するためにDNA鑑定をしてほしいと訴えたが、証拠は過失により破壊されたと言われた。だが、それは事実ではなかった。その後、裁判所に保管されていた被害者の下着が見つかり、ブラッズワースの有罪に自信があった検察は、それらの証拠を検査に回すのを認めた。証拠から抽出された解読可能なDNAには、ブラッズワースのDNAと一致するものは一つもなく、彼は釈放された。 ブラッズワースは今、2005年からペンシルベニア州フィラデルフィアに本拠を置くNPOで、無罪を勝ち取った元死刑囚が運営している「ウィットネス・トゥ・イノセンス(無実の証人、略称WTI)」の理事を務め、死刑廃止の運動に奮闘している。 2004年、当時のジョージ・W・ブッシュ大統領が署名して、冤罪被害者を支援する法律「無実者保護法」が成立すると、この法律の下で、有罪確定後にDNA鑑定を行う費用を連邦政府が助成する事業、その名も「カーク・ブラッズワース有罪確定後DNA検査助成プログラム」が発足した。 ※ナショナル ジオグラフィック日本版3月号特集「私は死刑囚だった」より抜粋。
文=フィリップ・モリス/ジャーナリスト