《アルゼンチン》グラシェラ・スサーナさんの訃報に寄せて=歌を通じて日亜文化交流に貢献=ブエノスアイレス 相川知子
グラシェラさんと菅原洋一さんのエピソード
グラシェラさんは、菅原洋一さんの後押しを受け、多くのテレビ番組に出演した。その中で、日本の早口言葉「なまむぎ なまごめ なまたまご」を教えられた際のエピソードがある。グラシェラさんは即興でギターを弾きながら「なまむぎ なまごめ なまたまご」をフォルクローレ調で歌い上げ、驚かせた。ユーモアと即興の才能を示すエピソードとして語り継がれている。
八戸市との縁
帰国後も長年日本を行き来し、各地でコンサートへ行っていた。特に青森県の八戸と縁が深かった。「八戸コンサート」では地元の人々を魅了し、2000年にはアルバム『風は南から』をリリース。その中には「八戸によする歌」や「八戸小唄」が収録されている。これらの曲は、八戸の美しさと、アルゼンチンから八戸への思いを込めた作品となっている。「日本とアルゼンチンは海でつながっている」というテーマを大切にしながら活動を続けていた。
波乱万丈の人生
輝かしい歌手歴とは裏はらに私生活は波乱万丈であった。 16歳で結婚した最初の夫からは暴力にあい、実は傷をかくしながら歌っていたという。日本の成功にも関わらず、住む家もなかった。「劇場の家」という身寄りのないアーティストが集う場所に身を寄せていた。死亡したのもその場所であった。
在アルゼンチン日本大使館新年会
2024年、在アルゼンチン日本大使館で開催された新年会でグラシェラさんの姿を見たのが最後であったと思う。その場でご挨拶したら、あの『時計』を披露してくださり、その温かい人柄に触れた。今この記事を書きながらビデオでその歌声を聞き、司会をしたり受け答えする様子を見ると、音楽を通じて長年人々と心を通わせた様子がひしひしと伝わってきた。 日本とアルゼンチンの文化交流において、グラシェラさんが果たした役割は計り知れない。 筆者が初めてグラシェラさんの話を聞いたのは谷口庄平さんからである。谷口さんは1964年第3回コスキンフォルクローレフェスティバルに招請された「Los Cantores del Sol Naciente」(日出づる国の歌い手)というトリオのメンバーとして、ブエノスアイレス空港に降り立ち、ものすごい歓迎を受けて感動したという。 あとでわかったのだが、迎えに来たアルゼンチンの若い音楽関係者の中に、まだ少女であった「あのグラシェラ・スサーナの姿があった」と谷口さんは誇らしげに語っていた。グラシェラさんには来日前から実は日本と縁があり、また音楽だけではなく友情を大切にした人であることがうかがわれる。 グラシェラさんのご冥福を心よりお祈り申し上げ、遺した音楽と友情、そしてこれからも私たちの心の中で生き続けさせることを誓って追悼としたい。 (ブエノスアイレス 11月20日記 相川知子)