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1964年の東京パラリンピック出場者が振り返る当時の空気感

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NEWS ポストセブン

 美智子妃とパラリンピックの関係はそれだけに留まらなかった。大会実現の後押しになりそうな関係者に対して、パラリンピックの話を熱心に語ったという。その中の1人に、日本赤十字社(以下、日赤 ※注2)の「青少年赤十字課」の課長・橋本祐子がいた。

(※注2/日本赤十字社は、パラリンピックの東京大会の運営会長を務めた元厚生事務次官の葛西嘉資氏が会長を務めるなど、パラリンピックと縁が深かった)

 日赤は設立時から皇室と縁が深く、名誉総裁を皇后陛下、副総裁を皇太子妃殿下や各宮家の妃殿下が務めている。美智子妃も東南アジアの国々に雑巾などを送る「裁縫奉仕」の活動に熱心に参加していた。橋本と深い親交を持ち、東京五輪の際は国旗担当職員を務めた吹浦忠正氏によれば、美智子妃はそこで出会った橋本を「姉のように慕った」という。

 戦後直後から日赤で働く橋本は「ハシ先生」と呼ばれ、「奉仕」や「国際交流」に携わる若者の育成に並々ならぬ力を尽くしてきた。流暢な英語を話し、アメリカ仕込みの自由や民主主義、女性の権利を説くその迫力ある姿は当時の多くの若者たちを引き付けたが、美智子妃もその中の特別なひとりだったのである。

「何しろハシ先生は断然に光っている人でしたから。われわれもハシ先生の家には勉強会などでよく行きましたが、その3度に1度は美智子妃からお電話が来ていたようで、様々なお話を2人でなさっていたようです」

 美智子妃と交流を続けた橋本が、青少年赤十字の活動の一環として作ったのが「語学奉仕団」という組織だった。

「今度の大会には外国から車椅子に乗った障害者が来る。彼らが日本語だけの社会に放り込まれたら、新たに口と耳の2つの障害を持つことになってしまうでしょう」

 彼女はそう語り、日本でのパラリンピックの開催に向けて、大学生を中心に英語を話せる者を集めたのだ。最終的に語学奉仕団には約160人が集まり、障害者施設などでも研修を行った彼らが、東京パラリンピックでの各国の選手団のアテンドを担った。その活動は日本における「ボランティア」の源流だったといえるだろう。

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