航空史上最悪の事故から39年、人生を変えられた遺族の思いを聞いた 520人犠牲の日航機墜落、御巣鷹「慰霊登山」に同行して
3人の普段の業務は飛行計画の作成やフライトの監視、支援などで、1人で複数便に対応することもある。関根さんは、美谷島さんの話を聞いて「不安に思ったら立ち止まり周囲に相談しよう」とあらためて感じた。 日航は、研修などでジャンボ機墜落の教訓継承を進めているが、講演会を企画した3人が遺族の話をじかに聞くのは初めてだった。安立さんは自身の責任の重さを再確認した。「加害者でもある私たちに話してくれた。飛行機が飛び続ける限り、安全を考え続け、築いていかなければならない」 美谷島さんは語る。 「基本に戻って日々努力を続けることが安全につながる。今まで以上に事故を風化させないよう取り組んでもらいたい」 ▽それぞれの人生 事故によって遺族は人生を大きく変えられた。兵庫県宝塚市の浅野敏行さん(69)もその1人。36歳だった兄の潤一さんを亡くし、銀行を退職して兄の代わりに家業を継いだ。 「犠牲となった520人それぞれに人生があり、遺族がいる」
敏行さんに、兄の潤一さんについて聞いた。 潤一さんは、大学では陸上競技に打ち込むスポーツマンだった。創業1907年、大阪市の老舗木材商社「アサノ」を父から継ぐ予定で、卒業後は商社に就職し数年間修業。アサノに入社すると、インドネシアで木材の仕入れを担当するなど重要な仕事を任された。 「家業を継ぐつもりは全くなかった」という弟の敏行さんは、銀行に就職。1984年には、勤め先の研修制度でアメリカ・シカゴの経営大学院へ留学した。渡米前、兄が東京まで見送りに来てくれた。「それが兄貴を見た最後だった」 ▽目の前が真っ暗に 1985年の事故直後、一報は、父からの国際電話だった。 「兄さん(潤一さん)が乗っていた飛行機が行方不明になった」 目の前が真っ暗になり、その場にしゃがみこんだ。その後の記憶が定かでない。すぐに帰国し、家族とともに東京からタクシーで現場の群馬に急いだ。 遺体が次々と運び込まれる学校の体育館に、敏行さんは何度も何日も通った。