<私の恩人>板尾創路 芸人になったのは紳助さんがいたから
中に入ると紳助さんがいて、いろいろ話をしてくださいました。1時間くらいですかね。僕は、もう20歳でしたから、お笑いを始めるのに決して早いわけではない。「今から誰かの弟子について、3年ほど修行して、そこから実際に舞台に立って、それで『やっぱり向いてないな…』となったら、もう25歳も過ぎて、他の仕事に就きにくくなる。だから、もし芸人を考えるんやったら」と吉本興業の学校・NSCを勧めてくれたんです。さらに「ほんで、学校行きながら、いつでもウチに遊びに来たらエエねん」とも言ってくれた。 あると思っていた壁がなくてつんのめって、そのまま前にコケたら、この世界に入っていたみたいな感じでした。紳助さんに門前払いされてたら、案の定という思いもありながらも、「断りやがって、紳助のボケ!!」と吐き捨てて、それっきりお笑いの世界と接点を持つことはなかったと思います。 今から思うと、当時の僕なんて、まだまだヤンキーの雰囲気も残ってましたし、見た目も、しゃべり方も、ムチャクチャやったと思うんです。そんなヤツがいきなり家に押しかけてきたのに、それだけの言葉をかけてくれた。自分が後になって思うことですけど、そら、なかなかできることやないなと思います。 それから、NSCに入って、ホンマに日々遊びに行くようになるんです。特に何をするわけでもないんですけど、地元の先輩の家に遊びに行くように行ってました。師匠と弟子ではないですし、本当に一緒にご飯を食べて、ワーワーしゃべって…ということなんですけど、その中で、仲間を大切にすることや、才能があっても努力せなアカンということ、芸人はいつまでもしがみついている仕事ではなく才能がなかったら辞めるのも勇気だということ…などなど。紳助さんが何気なく言うてたことから、たくさんのことを教えてもらいました。 それと、弟子ではないので、芸名をもらったわけではないんですけど、ほんこんさんと僕のコンビ名「130R」は、もともと紳助さんの個人事務所の名前やったんです。そもそもでいうと、バイク好きの紳助さんが鈴鹿サーキットのコースにある厳しいカーブから名前をとって事務所の名前にしたんですけど、僕らもバイク好きやったんで「それをコンビ名にさせてください」とお願いしたんです。