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一頭の馬が繋いだ命のバトン あしずりダディー牧場

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netkeiba.com

 話は前後するが、あしずりダディー牧場として本格的に始動した翌年の2012年に、グリーンチャンネルの「亀和田武が行く 競走馬のいる風景2」という番組の取材を受け、宮崎さんをはじめ牧場や馬たちが登場している。 「オリジナルステップが来てすぐだった頃で、私にもまだ余裕がありました。ただ何もかもが中途半端な感じで、何にも知らずにやっていましたから、ウキウキ感が残っていた頃です。その時にはあんな地獄に落ちるとは、私も思いもよらなかったですけどね(笑)。番組では夢を語っていたと思います(笑)。その時に語った夢ははかなくも散ったわけですけど(笑)。本当に良い勉強になりましたね」  宮崎さんは当時を振り返ってしみじみとした口調になった。  テレビで紹介されて2年半ほどたった頃、1頭の馬があしずりダディー牧場にやって来た。15歳まで競走馬として走り、日本の競馬において409戦の最多出走記録を達成したセニョールベストだ。  セニョールベストは1999年4月13日に北海道門別町(現・日高町)の中川哲也さんの牧場で生まれた。父はロドリゴデトリアーノ。母がムゲンパワー、母の父トライマイベストという血統だ。  セニョールベストの長い長い道のりが始まったのは、2001年7月19日。浦和競馬場でデビューし、5頭立ての5着と殿負けだった。浦和では勝利を挙げられず、船橋へと移籍。ここでも勝てないまま名古屋に移り、初戦の2002年9月4日に初めての勝利を手にすると、次のレースでも先頭でゴールして2連勝を飾った。名古屋ではその後2勝して、2003年6月に高知に転入。厩舎を替えながら引退までこの地でレースを重ね、勝ち星もコツコツと積み重ねていった。  2012年2月3日に300戦目を迎え、ダイナブロスが持つ日本の競馬における平地競走の最多出走回数記録に並ぶと、2月11日にも出走を果たし、最多出走記録を更新したのだった。その後も走り続けたセニョールベストは2014年9月21日を最後に、競走馬登録を抹消。2歳から始まった競走生活は、15歳でピリオドが打たれた。通算409戦33勝、これがセニョールベストが刻んだ大記録である。 「ダディー牧場でセニョールベストに余生を送らせたいという連絡が突然あったんです」  電話の主は、引退した後に新たにオーナーになった女性で、こうして日本記録保持者セニョールベストはあしずりダディー牧場に仲間入りしたのだった。だがセニョールベストの話をする宮崎さんの声は、時折くぐもる。 「鉄の馬と言われた馬を、死なせてしまいました」  15歳まで出走し続け、409回も走った心身ともに強かったセニョールベスト。なのに、新天地に慣れるか慣れないかのわずかな期間で、天国へと旅立ってしまったのだ。腸捻転という診たてだったが、セニョールベストは自分の脚でしっかりと立っていた。通常腸捻転になると、七転八倒するほど苦しむとよく聞く。だがセニョールベストは違った。 「脂汗をかいて、汗がタラタラとしたたっていたのですけど、横になることはなかったですね。馬主さんが、手術をしたら治りますか? 手術できるところに運んでほしいと獣医さんに頼んでいらしたのですが、先生はもう手遅れだと仰いました。もうあの時は絶望しかなかったですね。体の血が全部引く感じで、血の気が引いたところから痺れてくるんですよね。手先とか足先から血がなくなってしまって蒼白になって、そんな感じをずっと味わっていました」  症状が現れて3日ほど横たわることなく頑張り続けたセニョールベストは、突然倒れてそのまま事切れた。 「ずっと気丈に立っていて、亡くなる瞬間バタッと倒れました。牧場に来てたった10日ですからね。そろそろ落ち着いてきたかなという時で、すごくショックでした。とても可愛い馬でしたしね。写真をたくさん撮ったり、他の馬たちと遊んだりして良い思い出が作れていればまだ良かったのですけど、牧場に来てたった10日ですからね。写真もほんの数枚しかなかったですし、本当に何もしてあげられませんでした。一生懸命走ってきて、一生懸命人を喜ばせてきたのに、最後はこれですからね。本当にすごいショックでした」  馬主の女性の悲しみも大きかった。一晩、セニョールベストの亡骸と過ごしたい。そういう思いもあった。だが体に堪えるからと宮崎さんに説得されて、1時間だけセニョールベストと女性オーナーだけの最後のひとときを過ごした。409回、走りに走ったセニョールベストは、穏やかな余生をほとんど経験をしないまま、あっという間に天国へと駆け上がって行った。  セニョールベストの死により、オーナーと宮崎さんは深い悲しみと絶望を味わった。しかし、物語はここで終わったわけではない。女性オーナーは、セニョールベストが高知競馬で最後に在籍していた厩舎の調教師に連絡を取り、引退して行き場のない馬がいたら私が引き受けますと話をした。すると引退間近の馬がいることがわかった。毛色も栗毛でベストにそっくりだった。ベストと同じ釜の飯を食べてきたとも言えるマチカネカミカゼという名のその馬をオーナーは引き取り、再びあしずりダディー牧場に託した。  マチカネカミカゼの血統を紐解くと、父アグネスタキオン、母はウィンヒストリー、母の父はダンシングブレーヴ。母の母は1987年のエリザベス女王杯を制したタレンティドガールで、この母系はニッポーテイオーやビクトリアクラウンらを輩出している。つまりカミカゼは名門の出でもあるのだ。  カミカゼはベストからの命のバトンを受け継いで、今もダディー牧場で毎日健やかに過ごしている。そしてベストからの命のバトンはさらに繋がっていった。   「ある乗馬クラブから、年を取った馬を引き取ってもらえないかと電話が来たんです。老齢なので、子供くらいしか乗せられませんと言うんですね。ウチが断ったら、屠畜されてしまうのかどうか聞いたら、最悪そうなると言っていました」  宮崎さんは、その時点で先方にOKの返事はしていなかった。だがその話をたまたまベストのオーナーに電話で伝えると、その子は私が引き取りますという答えが返ってきた。今はセリアと名が変わっているが、競走馬時代はマヤノアトランタという馬名で走っており、1992年のシンザン記念を制し、ミホノブルボンが優勝した日本ダービーで3着に入ったマヤノペトリュースの半弟にあたる。引退後は何ヵ所かのクラブで乗馬の仕事をこなし、たくさんの人を乗せて頑張ってきたセリアを待っていたのは、あしずりダディー牧場でののんびりとした余生だった。  セニョールベストは、15歳で天馬となったが、オーナーとあしずりダディー牧場との縁を結んだ。そしてマチカネカミカゼとセリア(マヤノアトランタ)の命を繋いだのだった。 (つづく) (取材・文=佐々木祥恵)

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