舞台『キオスク』出演、橋本さとしインタビュー 「僕たちがいるべき場所はここなんだ」と感じた日々
舞台『キオスク』が、石丸さち子の演出でストレートプレイ版として日本初演される。オーストリアの人気作家ローベルト・ゼーターラーによるベストセラー小説を、原作者自身が戯曲化した本作。1937年、時代のうねりにのみ込まれていくオーストリアを舞台に、17歳の主人公・フランツ(林翔太)の青春を、みずみずしく切なく描いている。1月22日(金)に兵庫県立芸術文化センターにて開幕した本作にオットー・トゥルスニエク役として出演する橋本さとしに、作品の魅力や共演者とのエピソード、コロナ禍で思った事などを聞いた。 【全ての写真】橋本さとしの画像(全5枚) ストレートプレイに飢えていた ――最初に、ご出演が決まった時の心境を教えてください。 ここのところ、劇団☆新感線の『偽義経冥界歌』というエンタテインメント性の高い舞台や、『ビリー・エリオット』というミュージカルに出演させていただいたので、「ど」が付くストレートプレイに自分の中で飢えていたところがありました。このタイミングでお話をいただいたのは、僕にとってはとてもありがたくて、喜ばしいことだったんです。 やはり僕はストレートプレイが自分の原点だと思いますので、この作品でもう一度、自分の演技的な基本に立ち返って、自分の中から湧いてくる感情に乗せたセリフ回しというものを、再スタートと言えば、少し大袈裟な言い方になるかもしれませんが、ここから何かを構築させていければなと。気合十分です。 ――『偽義経冥界歌』も『ビリー・エリオット』も、どちらも「父」役でしたね。 そうなんですよ。一方は地獄のお父さんで、もう一方は炭鉱夫のお父さん。いろいろなお父さんを演じさせていただいて、僕もそういう役柄を演じるような年齢に差し掛かっているのかなとすごく実感しました(笑)。 殺されて生き返るような冥界にいるお父さんと、超現実的な1980年代の労働者組合のストライキの真っ最中で戦いながらも、家族の間で揺れ動くリアリティのあるお父さんの役と、幅広かった。両方演じられてとても楽しい1年になりましたね。 ――その中で、今回は舞台となるキオスク(タバコ店)の店主オットー・トゥルスニエク役を演じられます。 オットーという役も、まさに血はつながっていないですが、フランツという青年にとっては、親父的存在でいる役柄なんです。フランツという田舎で育った純朴な青年が、ウィーンの街に出てきて、第二次世界大戦目前の、ナチスドイツが台頭する現状を目の当たりにする。そのきっかけになる、オットー・トゥルスニエクというおじさんで、彼が人生観のスイッチを押してあげる役という意味では、親父的ポジションにいるのではないかなと思います。 ――現段階でどのような部分に難しさややりがいを感じていますか。 ストレートプレイというのは、言葉のキャッチボールや感情の受け渡しあい、バトンをしっかり相手に渡すということがとても大事になってきます。特にこの作品は、原作が小説で、日本では先にリーディング版として上演して、今度はストレートプレイになります。演者が実際に演じるという形をとっていますから、緻密に小説で描かれているところを、舞台版ではある意味すっ飛ばして描いていたりする。その分、行間の芝居と感情がすごく大事なんです。 どういうものを背負って、今この場に立っているか。それが、演者にとってはとても重要なことになってくると思いますし、難しいところですね。お客様の想像力をかき立てられるような立ち方で舞台の上に立ってないと、それは本を持っていないだけであって、ただのリーディングになってしまう恐れもありますから。 ――役者としての説得力というのでしょうか。たたずまいから観客の想像力をかき立てるにはどうしたらいいと思いますか。 正直、セリフが多いんですよ。特に長台詞。長台詞をひとつひとつ分解して、解明していくと、やっぱり不思議と全然感情が入っていなかったり、自分の中でイメージがなかったりするセリフは、セリフ覚えが悪くなって入ってこないんですよね。 僕たちがよくセリフを入れるという段階は、ただ覚えて暗記するという意味ではなくて、腹に落とし込んで、それが、心臓を通って、脳みそを通って、自分というフィルターを通して、言葉にすること。それができて初めて、セリフが入ったと言えるんですね。だからそのセリフを入れる段階というのが、僕にとってはすごく重要になってきています。 単純に年々セリフ覚えが悪くなっているというのもあるんですけども(笑)、そこが一番苦労するところで、役者が孤独な作業をする段階ではあります。1日でも早く、自分というフィルターを通して、感情がぎゅっと締め付けられるようなセリフを気持ちよく吐きたいですね。