「売れたのはラッキーの積み重ねだった」――紅白ラッパー・SEAMO、今は馬主に 振り返る絶頂期
「みんな頭がおかしくなっていくの、ここだろうな」
もう一度這い上がろうと、曲作りやボイストレーニングを地道に続けた。それは「バットを何度も振りにいっては、空振りして倒れるような日々」だった。 「何をやっても結果が出ない。一度登った山を下る……その現実を受け入れる作業は、とても残酷で、苦しいものでした。みんな頭がおかしくなっていくの、ここだろうな、って。一回極めた景色を見た後で下っていく、あるものがなくなっていくというのは……心がボキッと折れてしまう」 なぜ、SEAMOは一時期の好調さを失ったのか。 「実際は、ラッキーの積み重ねだったんだろうと。ラブソングでメロディーがベースにあるラップの『マタアイマショウ』とか、『ルパン三世のテーマ』に日本語ラップをのせた『ルパン・ザ・ファイヤー』のアイデアは“早いもの勝ち”だった。人々が欲しているタイミングでいち早く、時代の大きな追い風に乗れた。だけど、本当にそのポジションに立つための自分自身のスキルは足りなかったのかな、と今は思うんです」 絶頂期は、CDセールス、オリコンチャートなど「数字ばかり追いかけていた」。本当に大切なものを見失っていたかもしれない、とSEAMOは言う。 「ヒット曲を好きでいてくれた人はいたかもしれない。でも、楽曲、ライブ、パフォーマンス、すべてをひっくるめたSEAMOというアーティストは、武道館の客席数ほどの、本当のファンを獲得できてなかったのかな」 年収は一時、絶頂期から比べると大幅に減少。それでも印税や楽曲提供もあり、「ただちに食えなくなるってことはありませんでしたよ」と苦笑する。
「シーモネーター」の挫折に鍛えられた
SEAMOの挫折は、これが初めてではない。2002年に「シーモネーター」という名前でメジャーデビューするも、約1年でレコード会社から契約解除されている。アキラ100%が登場する20年以上前から、“全裸・腰に天狗のお面”というインパクトある姿で、東海地区ではかなりの有名人だった。 「もう一度メジャーデビューしたいって、がむしゃらでした。名刺に『ディレクター』とか『A&R』とか、肩書がある人にはガンガン営業しました。ある会社の社長さんには、『新幹線の移動中なら時間が取れる』ってことで、横に乗り込んで、デモテープを聴いてもらったりして。あるレーベルの方には一晩じゅう連れまわされて、酔っぱらいに『今ここで歌ってみろよ』って言われたりとか。クソミソなこともありましたけど、ガッツはあったかな」 泥まみれになりながら上を目指した当時の経験は、SEAMOのハートを強くしたという。 「ミュージシャン志望者にとって、当時の一つのゴールは『東京でデビューする』こと。SEAMOとして再デビューが決まった時は、人生で一番嬉しかった。本当に、紅白よりも、武道館よりも嬉しかった。夢をつかんだ瞬間だったからだと思うんです」 しかし、絶頂期でもSEAMOの自宅はずっと名古屋市内にあった。東京に住んだことはない。地元に対する思い入れの強さからだ。 「名古屋にはnobodyknows+、HOME MADE家族など、勢いのある仲間がいました。地元にいても東京に勝てるって。もちろん、やっぱり東京はすごいなって痛感してますけど。でも、地元のファンは、ずっと見守ってくれている。感謝しています」 名古屋のミュージシャンたちからは「塾長」と呼ばれ、地元ヒップホップ界では重鎮として知られるSEAMO。現在はFM局でレギュラー番組も持ち、多忙な日々を送る。同郷で知られる映画監督の堤幸彦が監修したSEAMOのドキュメント映画「もしもあの時 “if”」も公開された。