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オンリーワンの男たち/3Dサウンドで世界を幸せにする男

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SmartFLASH

 ひとつのサウンドを解体・再構築することで、思いのままの音響効果を生みだす。瀬戸勝之は、世界で唯一人「3Dサウンドデザイナー」として活躍する、音の達人だ。東京オリンピックの特別展示会や、アニメ『ONE PIECE』のイベント、あるいは東京・池袋のサンシャイン60の建物内サウンドをプロデュースする。「基本、人生は足し算」 と語る瀬戸の実像に迫りたい。  1975年、神戸で生まれた瀬戸は、子供のころからダンスが大好きで、物心ついたときにはダンサーを目指していた。 「小学生の頃、テレビで流れる音楽は歌謡曲ばかりだったけど、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)で、初めて洋楽をバックにダンサーが踊るのを見て、うわあカッコイイって思った」  ボビー・ブラウンのR&Bにのって庭の芝がはげるまで踊り、中学ではハンバーガー片手に深夜まで友人たちとダンスに興じる。瀬戸は「昼はやんちゃぐれなチーマー」 になるも、夜は地元のディスコで、当時流行り始めたユーロビートにのって踊った。  1993年、18歳でシドニーに留学した瀬戸は、仲間とダンスコンテストに片っ端から出場、優勝を総なめにした。ダンサーとしてCM出演の話が来るようになり、コカ・コーラやファイブミニのCMに出演したのをきっかけに、現地のテレビドラマにも出演した。 「芸能の道に進もうか」 と将来への希望が芽生えた瀬戸は、20歳で単身ニューヨークに乗り込んだ。  憧れのストリート・カルチャーを追い求め、いつしかR&Bの聖地、アトランタへたどり着いた。知り合いもなく、一人路上でストリートダンスをする毎日。そんな瀬戸に興味を持った日本人の紹介で、世界的な大物アーティストを抱えるレーベル「ラ・フェース」 へ。そこでプロデューサーから、爆発的な人気を誇ったガールズR&Bグループ 「TLC」 のバックで踊らないかと誘われる。  2回ほどTLCのバックで踊り、「ラ・フェース」 の下位レーベルから契約金を手にした瀬戸は、いったん帰国後、アトランタに腰を据えるつもりで、再度アメリカへ飛び立つ。しかし、途中で立ち寄ったニューヨークで、欲しいレコードを大量に購入し、契約金を使い切ってしまう。無一文でアトランタに到着した瀬戸を待っていたのは 「もう契約できない」 の一言だった。 「かわいそうって思われたのかな。ラ・フェースの人が、レコーディングスタジオへ連れていってくれて。アウトキャストやアッシャーなんていう、憧れのスターたちがレコーディングしてた。ぼんやり立ってたら、サウンドマネージャーが『ラップできるか?」 って声をかけてきた。ハッタリで日本語で適当にやったら、 『それいい、トラック録るぞ。リリック書いとけ」って」  ラップダンサー「MC E.T.」の誕生である。「E.T.」とは映画から命名したもので、「指が折れてるから」だそうだ。 初めてのジャケ撮りでは高価な椅子に座ってポーズするも、仕上がったビジュアルは、椅子が地球になっていた。瀬戸、21歳。  CDもリリースし、このままアーティストとして進むと思いきや、「なんとなく行き詰まった」と、結局は帰国した。地元・神戸ではドレッドヘアで肉体労働をして過ごす日々。ある日、近所のおばちゃんから 「カレンダー、ありがとう」 と言われた。不思議に思った瀬戸が母親に尋ねると、母親は息子の「MC E.T.」 のジャケ写真で勝手にカレンダーを制作、近所の人に配っていた。瀬戸は激怒して、めでたく家出となった。  友人宅を泊まり歩き、遺跡発掘のバイトで炎天下に焼かれ、粘土質を薄く削る作業で筋肉は鍛えられたが、 「3カ月が限度」と音をあげ、母親に謝って家に帰った。実家で充電した瀬戸は、週末クラブへ繰り出すようになる。当時、神戸のクラブは 「大阪に負けている」 状況で、まったく一般客がいない。瀬戸は、大阪に対抗できるクラブを神戸に作りたいと思う。そして、大きな 「箱」 が必要だという結論に至り、いきなり神戸市長に直談判に行った。頭にタオル、足は下駄というファッション。瀬戸、22歳。 「市役所で受付の女性に『市長に会いたい。想いも紙に書いてきました』って言ったんだけど、もう完全拒否。生まれて初めてアポイントメントという言葉を知りました(笑)」  さあどうしよう。市長の一件で反省した瀬戸は、今度はラルフローレンのラガーシャツで銀行へ。「箱」 を準備するお金を借りようとするも、「『担保は?』と聞かれ『ないです』って、一瞬で終了(笑)」。しかし事業に興味を持った瀬戸は、自分で会社を作ればいいと思うようになる。瀬戸、23歳。  その後ピザ屋、パチンコ屋とバイトをしながら、クラブのイベント・オーガナイザーとして経験を積み始める。「ダイヤモンドラブ」 という伝説のクラブで過去最高の動員数のイベントを成功させると、ビルのオーナーからクラブを作ってくれないかとオファーが来た。こうして 「クラブジャンク」 のプロデューサーとなった。24歳のことだ。  瀬戸は、アメリカのクラブで見たスピーカーを、音響会社にリクエストすることから始めた。自分が考える最強ヒップホップアーティストを神戸に呼び、オープニングで678人の動員に成功。関西に激震が走ったという。しかし、クラブの通常営業は不振で、瀬戸は東京に営業をかけにいく。そしていつしか、東京~大阪~神戸のヒップホップ・カルチャーをつなぐ仕掛け人となった。  しかし、手応えを感じた矢先、ビルのオーナーが税金未払いのため、クラブが差し押さえられる事態に。瀬戸がクラブに行くと、そこらじゅう差し押さえシールだらけ。このままでは大切なスピーカーまで奪われてしまうと、瀬戸と仲間は、こっそり夜中にスピーカーを運び出そうとする。  だが、クラブから出た瞬間パッとライトがつき、パトカーに囲まれていたことを知る。瀬戸たちの行動を警戒した社長が先に通報していたのだ。まるで警察ドラマだが、瀬戸と仲間はホールドアップで投降して、ことなきを得た。この事件をきっかけに「神戸はやりきった(笑)」と瀬戸は東京を目指す。26歳だった。

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