『北風と太陽』の旅人は自ら上着を脱いだのか? それとも脱がされたのか…我々はいかに現実世界を捉えているか
世界に意味があるとしたら
私たちは、自分をとりまく外界を見つめ、そこから自分の物語を作り、その物語を再び外界に投射します。プロジェクションというこころの働きによって、外界と自分の物語は重ね合わされ、こころと現実はひとつの意味のある世界となります。 外界はただそこに在るだけでは意味を生みません。それをとらえた人のプロジェクションが重ね合わされることで意味を持つのです。世界に意味があるとしたら、そこにプロジェクションがなされているからです。 私たちは、現実世界を生きています。けれど、現実世界だけで生きていくことは、時になかなかしんどいものです。 なんだか生きる力が減っていくばかりと感じるような時、プロジェクションが生みだすイマジナリーな世界があると、目の前の現実からほんの少し離れることができます。 そして、離れることでひとときでも苦しみを忘れ、また生きる力がたまってくることもあります。 先の随筆で小川さんは、アンネ・フランクによる『アンネの日記』を読んで衝撃を受け、それからアンネに語るように、ノートにさまざまな自分の悩みを書き綴ったといいます。 作家になる原点となったそのような体験を通じて、小川さんはこう書いています。 「彼女との間に交わした空想の友情が、どれほど私の救いになってくれたか知れません。当時、私にとっての親友は、自分なりにこしらえた物語の世界に住む、決して会うことのできない少女だったのです」。 人間は生きてゆくために、どうにかして現実と折り合いをつけようとします。自分を現実につなぎとめるために、つかのま現実から離れるのです。そんな時に、プロジェクションが生みだす自分だけの物語は、大切な意味を持つのでしょう。
『北風と太陽』の旅人は自ら上着を脱いだのか? 脱がされたのか?
ここまでは、意識的なプロジェクション/無意識的なプロジェクションについて考えてきましたが、実際の現象においては、そんなにきれいに分かれるわけではないことにも気づきます。 落語やモノマネの鑑賞などでおこなわれているプロジェクションは、意識的なものと無意識的なもののあいだにあるようです。 そこに本物の蕎麦はないとわかっているけれど、噺家の仕草や道具立てによって、自分のなかで蕎麦に関する表象を再構成し、噺家の仕草や道具立てにそれを投射することで、噺家があたかも本当に蕎麦を食べているかのように見る/見えるというのが、ここでのプロジェクションです。 また、目の前にはモノマネ芸人のコロッケさんしかいないとわかっているけれど、コロッケさんのモノマネによって自分のなかで美川憲一さんに関する表象を再構成し、目の前にいるコロッケさんのモノマネにそれを投射することで、コロッケさんが本物の美川憲一さんよりも美川憲一であるかのように見る/見えるというのも同様です。 これらのプロジェクションは、噺家やモノマネ芸人の技量も重要です。上手な噺家や芸人であれば、鑑賞者の表象は再構成するまでもなく的確に喚起されます。鑑賞者が目の前の噺家や芸人にそれをうまく投射できたなら、落語やモノマネを存分に楽しむことができるでしょう。 それは、噺家やモノマネ芸人が情報の内容や配置といった状況を、仕草や道具立てや化粧や表情などで上手にコントロールしているからです。 そのように考えると、意識的なプロジェクションを他者に強要してもうまくいかない一方で、情報の内容や配置といった状況を制御できれば、他者に無意識的なプロジェクションをさせることは可能です。 たしかに、霊感商法やオレオレ詐欺、陰謀論や戦争時のプロパガンダなどは、他者がある意図をもって情報と状況をコントロールすることによって、主体が無意識のうちになんらかのプロジェクションをするように仕向け、こころと行動を操っているのだといえます。 イソップ寓話にある『北風と太陽』のように、旅人の上着を脱がせるには、強風でむりやり剥ぎとろうとしてもうまくいかないけれど、太陽で照らして暑がらせることで自分から脱ぐようになるというわけです。 この行為はプロジェクションとは関係がありませんが、他者が状況をコントロールすることで、他者の目的に向けて主体の能動的な行動を操っている例そのものです。 私たちは自分で思っているよりも、自らの意思のみで判断したり決定するような能動的な行動は、案外に少ないのかもしれません。 写真/shutterstock
---------- 久保 (川合) 南海子(くぼ (かわい) なみこ) 1974年東京都生まれ。日本女子大学大学院人間社会研究科心理学専攻博士課程修了。博士(心理学)。日本学術振興会特別研究員、京都大学霊長類研究所研究員、京都大学こころの未来研究センター助教などを経て、現在、愛知淑徳大学心理学部教授。専門は実験心理学、生涯発達心理学、認知科学。著書に『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』(集英社新書)、『女性研究者とワークライフバランス キャリアを積むこと、家族を持つこと』(新曜社)ほか多数。 ----------
久保 (川合) 南海子