水木一郎”アニキ”と呼ばれて約20年 なりきって歌うことが”アニソン愛”
アニソン歌手になることに抵抗はあった?
初レコーディングは、17歳、高校生のときに歌った『シェナンドー』というテレビ映画の日本語版主題歌でした。思えば、僕のルーツはやはり主題歌だったわけですが、それは販促用のソノシートだったので、正式なレコードデビューは20歳のときに出したカンツォーネ歌謡になります。それもアニメにしたらいいような、ロマンチックな歌でしたが、いっこうに泣かず飛ばずでしたね。それでもシングルを5枚ほど出させてもらいました。 そんなとき、アニメや特撮番組を手掛けていた東映さんと、その主題歌をリリースしていた日本コロムビアで、アニメソングを専門に歌う歌手を育てようという流れになったんです。それまでは少年少女合唱団やコーラスグループがほとんどで、ソロ歌手が本格的に取り組むことはあまりなかったんです。女性は堀江美都子、大杉久美子といった少女たちがアニメソングの英才教育を受け始めていました。しかし、ヒーローソングの歌えるパンチのある男性歌手がなかなか見つからない。 堀江が『12歳の神話』という曲でデビューする前に、僕が歌を習っていた作曲家の先生のところにレッスンに来ていました。先生が堀江に「このお兄ちゃんが歌うから、覚えるんだよ」と言って僕に手本を歌わせました。そのときの僕の歌を聴いていたディレクターが後に僕に声をかけてくれたことがアニソン歌手への転身の第一歩でした。アニソンデビューは『原始少年リュウ』でした。うちのおふくろの影響ですかね、もともと映画音楽が好きだったので将来は映画主題歌を歌いたいと思っていたし、テレビアニメも映画と思えば歌っている人の顔がないのは当たり前だと思って、すんなりと入っていけました。 よくね、マスコミさんは、「最初は嫌だったでしょう」って聞いてきますけど、そう言わせたいんですよね(笑)。僕の場合、歌が本当に歌いたかったし、抵抗はありませんでした。当時のアニメは最低1年間は放送していましたから、主題歌のほかにも、挿入歌なども合わせると、1つの番組でだいたい1枚のアルバムができるくらい、新曲をレコ―ディングしていましたね。同じ時期にいくつもの番組を担当していることも多かったので、ほとんど毎日、コロムビアに通っていましたよ。当時は今のようにデモ音源を受け取ったりすることはないので、譜面だけを頼りに練習します。それから、ピアノスケッチっていうんですけどね、作曲家の先生のピアノ伴奏で歌を合わせていくんです。その時に、譜面を変えたりすることもあるんですけど、そこですぐに対応できないような歌手には次の仕事はこない。そういう時代だったんです。おかげでずいぶん鍛えられましたよ。