【アファルターバッハの夢】メルセデスAMGの歴史 飽くなきハイパフォーマンスの追求
夢をかなえた男たち 社名の由来
text:AUTOCAR UK編集部 translator:Takuya Hayashi(林 汰久也) 【写真】AMG GT、A 45、C 63、SLS、G 63【アファルターバッハのモンスターを写真で見る】 (154枚) 良いニュースが不思議な形でやってくることもある。ハンス・ヴェルナー・アウフレヒトにとって、メルセデス・ベンツが1965年にレース活動から撤退すると決定したことは、災難に思えたに違いない。 10代の頃、彼はメルセデスのレース用エンジンを作ることを夢見ていたが、同社に就職して間もなくその夢は打ち砕かれようとしていた。 普通の人なら現実を受け入れて、夢を諦めてしまうだろう。しかしアウフレヒトは違った。 エアハルト・メルヒャーという志を同じくする同僚とともに、300 SEを手に入れて分解し、エンジンの出力を172psから241psに引き上げ、マンフレッド・シークの運転により1965年のドイツ・ツーリングカー選手権で10戦10勝を挙げた。 ニュースは瞬く間に広まり、翌年末にはアウフレヒトとメルヒャーに、公道やサーキットで使用するためのメルセデスのチューニング依頼が殺到した。そこで1967年、彼らはメルセデスでの仕事を辞めて独立し、ブルクシュタルの近くにショップを設立することを決意した。 こうして、アウフレヒト(A)とメルヒャー(M)、そしてアウフレヒトの故郷であるグロース・アスパッハ(G)が1つになり、AMGが誕生したのである。 商売は繁盛した。メルセデスでさえもチャンスを見落としていたことに気づき、ロードカーを高度にチューニングしたバージョンをリリースし始めた。その最もわかりやすい例を挙げると、1968年の6.3L 300 SELがある。 しかし、メルセデスのスーパーサルーンがどんなに速くてパワフルなものであっても、AMGはそれをさらに追い越すために心血を注いだ。 3年を要したが、6.3Lで250psの300 SELが、6.8Lで434psのレースカーに仕上がっていた。1971年のスパ24時間レースでは、グリッド上に大きな赤い「豚」が出現したことに群衆やライバルからは驚きの声が上がっていたが、見事に2位とクラス優勝を果たした。 エンジンだけでなく、インテリアのカスタム需要にも後押しされてビジネスは急成長を遂げ、1976年にはグロース・アスパッハの敷地が手狭になったためアファルターバッハへ移転し、現在に至る。