信子さま「皇族費は月10万円しか受け取っていない」と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家「新当主」の行方
■「宮家へ戻るとストレス性ぜんそくが再発」 信子さまと家族の溝は、なぜ生じたのか。 信子さまは、明治の元勲である大久保利通を親戚に持ち、九州財界を代表する名家に生まれ育った。兄は麻生太郎元総理だ。 1980年11月に“ヒゲの殿下”と親しまれた寛仁さまと結婚。当時、「長年好意を寄せ続けた寛仁さまが、7年越しの恋を実らせた」と、熱愛ぶりが話題になった。だが、十数年で破綻することになった。 信子さまは2004年以降、気管支ぜんそくによる入退院を繰り返し、軽井沢での療養生活に。09年秋には宮内庁が「宮邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発する恐れがある」という主治医の見解を公表。信子さまは入院先から宮邸に戻らず、宮内庁分庁舎として使われていた旧宮内庁長官公邸で暮らし、寛仁親王家では寛仁さまと彬子さま、瑶子さまの3人が生活するようになった。 複数の関係者によると、寛仁さまは長い闘病の末、12年に亡くなったが、それまでの数年、信子さまが病院へ見舞いに訪れることはなかった。息を引き取る直前にようやく足を運んだが、すでに寛仁さまは意識がない状態。まだ意思疎通できたころの寛仁さまの意向や周りの反対から、信子さまは病室に入れなかったともいわれる。 そして寛仁さまの葬儀の喪主は、彬子さまが務めた。妃の信子さまではなく娘が喪主となった理由について、宮内庁は当時、筆者の取材に「寛仁殿下のご意向」と答えている。 ■「母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」 その後の寛仁親王家は、混乱が続いた。 寛仁さまが亡くなって1年を経ても当主が決まらず、寛仁親王家は消滅。母娘3方は百合子さまを当主とする三笠宮家に合流した。
寛仁親王家をめぐる混乱については、彬子さまが「月刊文藝春秋」(2015年7月号)に載せた手記「彬子女王 特別手記 母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」でも触れている。 寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない。父が亡くなってからも、何度も「話し合いを」と申し出たが、代理人を通じて拒否する旨が伝えられるだけであった。 彬子さまは信子さまについて、公務に復帰するのであれば、三笠宮両殿下にお詫びとご報告をしてほしい、ともつづっていた。 16年の三笠宮崇仁さまの葬儀でも、高齢の百合子さまに代わり、彬子さまが喪主代理を務めた。信子さまは、三笠宮さまが亡くなる1カ月ほど前に、入院中の聖路加国際病院を訪ねたが、このときも面会はできていない。もっとも、この一件も「面会できない状況だとご存じのはず」と、三笠宮家側は不信感を募らせたようだ。 ■信子さま「月10万円の皇族費しか…」と訴え この年の夏には、信子さまと三笠宮家の間で、あるトラブルも起きていた。 彬子さまも妹の瑤子さまも不在中だった旧寛仁親王邸の三笠宮東邸を、信子さまが訪問。弁護士と鍵の専門業者を連れてきていた。 宮邸の職員は信子さまに「扉は開けられません」と繰り返したが、鍵の専門業者が通用口の鍵を開けて信子さまは邸内に入り、荷物をまとめて宮邸をあとにしたのだ。 事情を知る人物によれば、この「騒動」で信子さまはご自身の「正当性」を主張されていたようだ。 当時、信子さまは、ご自身に年間1525万円が支給されている皇族費について「月額10万円しか受け取っていない」と訴えており、日常の費用は三笠宮東邸に請求していたという。 「妃殿下は『月額10万円では、新しい物品をそろえることができない。自分の荷物を取るために鍵を開けざるを得なかった』と正当性を主張されていたようです」 宮内庁も、長年にわたる宮家内の愛憎劇に頭を悩ませているようだという。