初打席グランドスラム…鮮烈デビューの残影と戦い続けた男とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1983~2000年】
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
周囲の期待と自身の葛藤
投手ならば初登板でノーヒットノーラン、打者ならば初打席で満塁本塁打。プロ野球の選手としてのファーストシーンとしては、これ以上ない一軍デビューだろう。もし野球マンガであれば出来過ぎと言われかねない一場面だが、「事実は小説よりも奇なり」で、いずれも実際にプロ野球であった場面。初登板ノーヒットノーランは1987年に中日1年目の近藤真一が巨人戦(ナゴヤ)で達成、初打席グランドスラムは83年に巨人3年目の駒田徳広が開幕2戦目に放って、強烈な印象を残した。 ともにプロ野球で初めての快挙だったが、その是非はともあれ、デビューが鮮烈であればあるほど、その場面は印象に残り続けるものだ。トレードマークも、見方を変えればレッテルとなる。すべての登板でノーヒットノーランを決めることも、すべての打席で満塁弾を放つことも事実上、不可能。その後の近藤は故障に苦しめられたが、一方の駒田は周囲の期待と“戦う”ことになった。 桜井商高までは投手で、巨人で一塁手に転向した左打者、そして初打席グランドスラム。80年代の巨人で、そんな駒田に“王貞治2世”の期待が集まったのも自然なことだったのかもしれない。駒田の快挙があった83年の助監督であり、翌84年には監督に就任する王も早実高までは投手で、やはり巨人で一塁手となり、そして通算868本塁打の金字塔を打ち立てている。 身長191センチと王より恵まれた体躯もあり、駒田には王を超える長距離砲としてV9を凌ぐ黄金期に導いてほしい、という周囲の願望も多分に含まれていたのだろう。これが野球マンガであれば、それも読みごたえのある物語になりそうだが、事実は微妙に違っていた。その83年こそ12本塁打を放った駒田だったが、王の師匠でもある荒川博から王と同じ“一本足打法”を指導されるなどの英才教育を施され、多彩な指導者が多様な助言を与えられたことで、混乱。サウスポーのため一塁と外野しか守れないことも障壁となって、不振に陥っていった。 その体躯からのギャップはあるが、もともとの持ち味はコンパクトなスイングからの安定感。悩み抜いた末、“我流”に戻すことにしたのは86年のことだった。翌87年には、規定打席にこそ届かなかったが、初めて出場100試合を突破、パワーも復活して、83年に続く2度目の2ケタ本塁打。以降6年連続2ケタ本塁打、常に打率3割の前後を維持する安定感で、レギュラーを張り続けた。ただ、89年からの3年連続を含む10度のゴールデン・グラブを獲得するなど一塁守備も軽快で堅実で、足も速かったが、やはり体躯とのギャップもあってか、そのイメージが定着した印象はない。その後も、なかなか駒田には追い風が吹かなかった。