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『風の谷のナウシカ』に表れる宮崎駿の“矛盾”とは? 『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』、2冊の書籍から考察

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リアルサウンド

 昨年末、宮崎駿に関連する書籍が相次いで2冊発売された。スーザン・ネイピア著『ミヤザキワールド 宮崎駿の闇と光』と赤坂憲雄著『ナウシカ考 風の谷の黙示録』だ。スーザン・ネイピアはアメリカにおける日本文化と日本アニメ研究の第一人者で、赤坂憲雄は『岡本太郎の見た日本』などの著作で知られる民俗学者である。  宮崎氏については、これまでも数多くの論考が送り出され、本人のインタビューも豊富だ。日本アニメのみならず、現代日本文化を代表する存在と言ってもよい同氏の存在は、いくらでも語りがいのある題材であろう。この2冊は、民俗学者と海外のアニメ研究家という、全く異なる視点から宮崎駿の実像と思想を見つめている。  ネイピア氏の『ミヤザキワールド』は、宮崎氏の初期の作品から最終作『風立ちぬ』まで、その創作の源を本人の人生体験に紐付け解読しようと試みている。戦争体験、結核だった母との関係、そして日本社会や国際情勢の変遷などが彼の創作にどのように影響を及ぼしているかを一作ごとに詳細に解き明かす。一方の赤坂氏の『ナウシカ考』は、宮崎駿の最高の作品とも一部では言われる漫画版『風の谷のナウシカ』を、民俗学や哲学、本人の言葉を参照しつつ、「思想の書」として読み解こうと試みている。赤坂は、『風の谷のナウシカ』は『源氏物語』や『罪と罰』のような「古典」と並び称し、一人の学者として、難解な古典に挑むかのように深く同書の世界を思索している。古典であるということは、時代を超えて読みつがれるだけの力を有した作品であるということだ。「今さらナウシカを?」と思うべきではなく、何度でもそれは振り返られるべき名著であると赤坂氏は考えているのだろう。  この2冊が明らかにする宮崎駿の実像とはいかなるものだろうか。異なる視点から導かれた両書に見られる3つの共通点からそれを探ってみよう。 ■西への憧れとその決別  『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』の2冊は、宮崎駿の西洋に対する考えの変化に着目している。宮崎氏は、『ルパン三世 カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』など、度々西洋を舞台にした作品を作っている。赤坂氏は、さらに初期の漫画や絵物語に目を向けてみれば、初期の宮崎作品には「西へ向かう」物語が多いと指摘している。  例えば、『風の谷のナウシカ』の原型の1つと言われる絵物語『シュナの旅』は、チベット民話『犬になった王子』をベースにした作品だ。『シュナの旅』の後書きで、宮崎氏はその民話を「王子が西に向かって旅をした」物語であると説明している。しかし、赤坂氏は、『犬になった王子』の原典には王子が旅をした方角は正確には記されていないと指摘する。つまり、宮崎氏は無意識的に西を指向しており、その無意識さに、「とても深い理由があるのではないか(『ナウシカ考』、P28)」と考え、宮崎氏には強い「西方憧憬」があるのではないかと結論づけている。  ネイピア氏も『ミヤザキワールド』の中で宮崎氏の西洋に対する憧れを指摘している。『アルプスの少女ハイジ』のロケハンでヨーロッパを訪れた宮崎氏が「ヨーロッパの風景に深い愛着を感じるようになった(『ミヤザキワールド』、P126)」と指摘し、『天空の城ラピュタ』のパズーの暮らす町はグラスゴーを参考にしているし、『魔女の宅急便』の欧州風の美しい街並み、「個人的趣味」が顕著に表れた『紅の豚』も欧州を舞台にした作品である。  こうした宮崎氏の西洋への憧れの変化が、作品内で顕在してきたのは90年代に入ってからだ。1991年のユーゴスラビア崩壊を、宮崎氏は「ボディーブロー」のように効いてきたと表現しているとネイピア氏は紹介しているが、その他、バブル経済がはじけた日本の将来の見通し難さに加え、湾岸戦争の勃発など国内外の大きな情勢変化に宮崎氏は大きく悩まされていた。ネイピア氏は、宮崎氏は「啓蒙されたヨーロッパで、いまだにそのような血生臭い事件が起こりうるとは想像だにしていなかったのだ(『ミヤザキワールド』、P243)」と宮崎氏の失望を表現している。  そしてネイピア氏は、漫画版『風の谷のナウシカ』の結末には、宮崎氏の非西洋的な思想が端的に表れていると言う。米国人のネイピア氏にすれば、1984年公開の映画版『風の谷のナウシカ』は、むしろユダヤ・キリスト教的な価値観を感じさせるもののようで、「宮崎の全作品を通じて文字通り最大の『高揚感』をもたらすクライマックスが描かれており、そこではユダヤ・キリスト教の伝承から抜け出してきたような場面が展開される(『ミヤザキワールド』、P259)」とその感動を表現している。  一方、漫画版『風の谷のナウシカ』のクライマックスについては、「過激なだけでなく、西洋の人間中心主義的な観点からすれば衝撃的でさえあり、宮崎が非西洋的な世界観に移行したことを窺わせる(『ミヤザキワールド』、P263)」と記している。  漫画版『風の谷のナウシカ』は、1982年に連載開始し、1994年に完結した。明確な結末を想定せずに開始されたこの漫画の連載は、上述したようなヨーロッパと世界の大きなうねりの中で描かれ、宮崎氏本人の思想的変化を如実に受けることになったのだ。  しかし、この非西洋的な人間中心主義を脱却したことが、漫画版『風の谷のナウシカ』を不世出の名作たらしめ、赤坂氏をして「古典」と言わしめる要因であったろう。  赤坂氏は『風の谷のナウシカ』は「黙示文学」に連なるものだと主張する。しかし、それは「反黙示録的な試み(『ナウシカ考』、P320)」であると言う。赤坂氏は、ロレンスの『黙示録論 現代人は愛しうるか』の黙示録の定義「人間の不滅の権力意思とその聖化、その決定的勝利」を引用し、『風の谷のナウシカ』の結末は、人間の決定的勝利の挫折がむき出しになったものだと語っている。ネイピア氏は、「過去への罪悪感と未来(少なくとも西洋的なテクノロジーがもたらす未来)への絶望感(『ミヤザキワールド』、P279)」と赤坂氏とは違う言葉で挫折を表現しており、『風の谷のナウシカ』は「キリスト教なものと東アジア的なものとが対立し、最終的には東アジア的なアニミズムが勝利」する物語と表している(『ミヤザキワールド』、P280)。  漫画版『風の谷のナウシカ』とは西洋への憧れを抱いた宮崎氏が、失望や絶望を経て東アジア的アニミズムの思想への転換が如実に合わられた作品であると言える。作中の言葉を借りれば、宮崎氏の思想が「破壊と慈悲の混沌」のように入り混じった作品なのではないだろうか。 ■母の不在と代理母性  宮崎作品には母性を巡る描写が頻出する。それは宮崎氏自身の幼少期の母親との関係性からくるものであるとネイピア氏は指摘している。宮崎氏が幼少の頃、母親が結核を患い、しばしば自宅に不在であったことが『となりのトトロ』のサツキとメイの母が入院しているアイデアに繋がり、『風立ちぬ』のヒロイン菜穂子は、同氏の母と同様の病気を抱えている。  宮崎氏は、しばしば母の不在を描く。それは結核で母と子の時間を満足に持てなかった体験の反映ではないかとネイピア氏は考えている。そして、母の不在は、代理的な保護者の物語を生み出す。ネイピア氏は『となりのトトロ』のトトロの大きなお腹は子宮を連想させ、トトロがサツキとメイの保護者的な役割を担っていると指摘する(『ミヤザキワールド』、P196)。  漫画版『風の谷のナウシカ』においても母は重要なキーワードとなっている。赤坂氏もこの漫画には幾重にも「母の不在」が描かれていると主張する。ナウシカの母は娘を愛さず、クシャナの母は娘を守るために毒の盃を飲んだ。赤坂氏によれば、「ナウシカ的世界そのものが母の不在に喘ぎ苦しんで(『ナウシカ考』、P85)」おり、その欠落を埋めるかのように、ナウシカが母としての役割に憑依していくのだと言う。  終盤、ナウシカは巨神兵に「オーマ」という名を与え、巨神兵の母として振舞う。その他、旅の道中で幾人もの人々を母のようになぐさめ、擬態としての母を演じ続ける。こうした不在を埋める擬態としての母の源流は、1972年に宮崎氏が高畑勲と手掛けた映画『パンダコパンダ』に見られると赤坂氏は指摘する。両親のいない幼い少女、ミミ子のもとにパンダの父子がやってくる。ミミ子は、パンダの子供パンにママになってあげると言うのだ。こうした異形の母子関係は『もののけ姫』のサンと山犬の母、モロとの関係にも見出だせるかもしれない。  ネイピア氏は、宮崎氏にとっての母の存在の大きさを物語るものとして、以下のインタビューを紹介している。 「だから人っていうのは愚かなものなんだよっていうね。実は母親とこの問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争していたんです。『人間っていうのは仕方がないものなんだ』っていうのがオフクロの持論で、僕は『そんなことはない』って言いあってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなあと思って(笑)」(『風の帰る場所』、P94)  これは、宮崎氏がユーゴスラビアの紛争などを経て西洋への失望を強める過程で、人間の進歩のなさについて考えた結果、母親が正しかったことを認めたということだとネイピアは綴っている(『ミヤザキワールド』、P244)。西洋的な価値観に憧れ、それが世界の複雑さの前に敗北し、人間というものは「仕方がない」ものだという諦念の境地に達することで母親の主張に賛同せざるを得なくなった複雑な思想の変遷が同氏の作品のそこかしこに反映されているのだ。 ■文明へのアンビバレントな態度 「僕は、海面が上昇して東京が水没し、日本テレビタワーが孤島のように浮かぶ姿を見てみたいのです」  まるで『天気の子』の終盤のような光景だが、これは新海誠監督の発言ではない。ネイピア氏によれば、これは宮崎氏が2005年にニューヨーカー『The Auteur of Anime』の記事にて語った言葉だそうだ(『ミヤザキワールド』、P37)。この発言の後、宮崎氏が作ったのは大洪水によって町が水没する映画『崖の上のポニョ』だった。  宮崎駿は明らかに文明に対する懐疑的な感情を抱いている。懐疑的というより、文明の破壊願望と言うべきかもしれない。漫画版『風の谷のナウシカ』におけるナウシカの最後の敵は、求人類が生み出した、生態系全てを作り変えコントロールできるハイパーテクノロジーである。それは腐海の毒に苦しむ人類を救う唯一の希望であるが、それをナウシカ自身が意思を持って叩き壊すという衝撃的な結末は、並の文明批判とは次元が異なる。  「多すぎる火は何も生みやせん」という台詞が映画版『風の谷のナウシカ』にあるが、多すぎる火とは強大な軍事力であり、巨大な産業のことである。映画版においては「そりゃワシらもちょびっとは使うがの」という台詞とともに前述の台詞が語られるあたり、映画版当時は適度に火をコントロールし、自然と調和可能な文明のあり方を称揚していたのかもしれない。  赤坂は、宮崎氏のとあるインタビュー「産業革命や、ハイテクを使うようになったからということ以前に、もう農耕を始めたり、プロメテウスの火をもらった時から、どうもこの生き物は業を背負っている」という発言を紹介し、人間のあり方そのものに、同氏が「原罪」のようなものを感じ取っていることを示唆している(『ナウシカ考』、P131)。  しかしながら、漫画版『風の谷のナウシカ』という作品のユニークさは、その忌むべき火の中でも最も強力なもの、巨神兵の火をナウシカ自身が使うことだ。業を持って業を制するというか、この態度にはどこまでも人間的な矛盾が潜んでいる。そのナウシカの態度を、クライマックスをともにするクシャナの父、ヴ王が「破壊と慈悲の混沌」と表現しているが、大変に的確な表現ではないか。  このアンビバレントさこそ宮崎氏の最大の魅力だろう。ネイピア氏は「ミヤザキワールドの複雑な側面は、相互に矛盾している場合もあるが、どんな時も観る者を魅了せずにはおかない(『ミヤザキワールド』、P46)」と語る。戦争を憎みながらも兵器や戦闘機を偏愛する矛盾はつとに指摘される点だ。西洋への憧れと失望が混在し、母への愛着と確執が混ざり合う。壮大なヒューマニズムを展開しながら、人間文明を破壊したがる。「破壊と慈悲の混沌」とは宮崎氏自身のことではないか。『ナウシカ考』と『ミヤザキワールド』の2冊の本は、そんなあまりにも入り組みすぎて迷子になりそうな宮崎氏の混沌として世界の魅力を、読者に改めて気づかせてくれる優れた案内書だ。

杉本穂高

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