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サハリン、アムール川流域とも交易をした北方の中世都市と巨大城館「勝山館」【「半島をゆく」知られざる北海道の歴史】

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注目したいのは、ここで和人がアイヌと混住していたとみられることである。墳墓群には、明らかにアイヌのものとみられる墓地が含まれているからだ。墓地は伸展葬(和人は屈葬)で、そこからはアイヌの太刀などの遺物が出土したからである。 実は、上ノ国市街地遺跡からも、アイヌの遺構・遺物が和人のそれに交じって出土している。館内外で混住が浸透していたとみるべきだ。ともすれば、和人とアイヌの対立ばかりが注目されているが、普段は一定の秩序をもって共存していたことも伝わってくる。 続いて訪れたのが、武田信広が築城した洲崎館である。時期的には、花沢館と勝山館の間に機能していたことがわかっている。天の川河口の砂丘上に築かれたため、遺構がはっきりしないが、日本海がよく見える。中村先生のご研究によると、ここから出土した古銭は開元通宝(621年初鋳)から永楽通宝(1408年初鋳)までの35種類からなり、総計は490枚である。 和人の館は、軍事的な機能とともに、交易の拠点としての機能も持っていた。これらの銭貨は館の支配者のもとに集積されたものと考えられる。洲崎館出土の古銭は、永楽通宝が最新銭である。これらは、本州からもたらされたものと中村先生は考えられている。 一括出土銭の分析から、コシャマインの戦いが始まる前の和人の居住地域は、日本海側は現在の余市町、太平洋側は現在のむかわ町まで拡大していた。ところがこの戦いによって、現在の知内町から上ノ国町の間という、渡島半島の西南端のごく狭い地域に縮小したことを、中村先生は指摘されている。中世において、和人は渡島半島すら十分に確保できていなかったとみるべきだ。 北海道の中世史は、前回指摘したように近世史料しか伝存しないため、松前藩が編纂した『新羅之記録』など「松前藩史観」というべき立場からの史料に依拠さぜるをえなかった。したがって中村先生が試みた出土銭の分析は、期待される分野なのである。 本日訪れた館は、本州の戦国城郭と比較して突出した戦闘機能をもつものではないが、輸入製品の出土が多いことに気づく。中国産の青磁や白磁をはじめ国内では古瀬戸や珠洲焼など、日常品と言うよりも高級品が目につく。これらは、館主の威信材というよりも、館が交易の中継基地だったことを示している。 文/藤田達生 昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。 ※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。 『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 (安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)

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