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サハリン、アムール川流域とも交易をした北方の中世都市と巨大城館「勝山館」【「半島をゆく」知られざる北海道の歴史】

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サライ.jp

北方の巨大城館=中世都市「勝山館」

花沢館を後にした私たちは、勝山館をめざした。武田信広が築城した本格的な蝦夷地の戦国城郭で、慶長年間まで機能していたようだ。ここで、私たち1970年代から80年代に学生・院生だった世代にとって、勝山館の発掘が衝撃的だったことをお話ししたい。 時は網野善彦氏が『無縁・公界・楽』で、日本中世の東と西について、さらには中世における天皇支配権や非農業民について大きな問題提起していた頃であったが、西に属した筆者ら関西の若手研究者には、まだまだ実感が薄かった。 ところが、東の世界を超えてサハリンやロシアのアムール川につながる北の城郭の実態が明らかにされるに及んで、中世日本を見る目を研ぎ澄ます必要があることを、いやがうえにも感じざるをえなかったのだ。 やがて、津軽十三湊の発掘による安東氏の実態が明らかにされることで、津軽から道南にかけての世界が、一衣帯水の地だったこと、安東氏からの津軽氏・松前氏らの自立が北方の近世化だったことが、学界で大きくクローズアップされた。海の世界への注目や、東アジアの視点の大切さが、広く共有された時代だったように思う。 たまたま、国立歴史民俗博物館で館長の石井進先生(東京大学名誉教授)のもと共同研究に参画させていただいていた時期で、十三湊や勝山館の話を先生から直接うかがい、相当に刺激を受けたことが懐かしく思い起こされる。 私たちは、立派な勝山館跡ガイダンス施設にうかがった。ここには、200分の1のスケールの勝山館の復元模型が展示されている。前後の大規模堀切と全体を柵で囲まれた館の模型からは、一見して城というよりも中世都市とみるべきであることがわかる。 メインストリートが館内を縦貫し、その左右に屋敷が広がる構造で、興味深いのは館主の屋敷が一番前、つまり低い位置にあることだ。城郭は、最高所に城主が位置するのが普通である。戦闘上も、上下の身分秩序からも、これを当然のことと考えるのだが、勝山館は逆である。領主が主体となって交易を進めるための配置だと、筆者には感じられた。 施設から出た私たちは、近接する夷王山(標高159メートル)に登った。ここから勝山館から津軽海峡にかけて一望するだけではなく、その山腹には大規模墳墓群(5地区約600基)が形成されており、聖なる空間だったことを確認するためである。そこから進んで、勝山館の背後から入城するのである。堀から門を通り内部に入る。メインストリートの左右には、屋敷跡がマークされており、往時を想像しやすくしている。 館内を散策しながら、都市内部を歩いていることを実感した。しかし武士の政治拠点というよりも、様々な商品が交換された市場町という印象を受けた。ここからは、中国・朝鮮・ベトナム産の遺物が、約10万点も出土しているのだ。

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