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『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 時代を先取りした画期的作品

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メル・ギブソンを主演に、荒廃した世界に蔓延する暴力や、スピードを求め疾走する者たちの狂気を描いてきた、『マッドマックス』シリーズ。その生みの親であるジョージ・ミラー監督が、トム・ハーディやシャーリーズ・セロンなど、新しい出演者を迎えて27年ぶりに再び作り上げ、これまで以上の絶賛を浴びたのが、本作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)だ。 『マッドマックス』シリーズといえば、荒くれ者どもが腕力で支配する修羅の世界を舞台に、汗と血とオイルの匂いが漂う男くさい印象があるが、本作はそのイメージを保ちながらも、同時に画期的なまでに現代的な内容へと変貌を遂げることになった。 そんな本作も公開からすでに5年が経過してしまったが、驚くことに、まさにいま鑑賞することで、その真のテーマ、真の価値がより輝くように感じられるのだ。そんな、時代を先取りし、時代を切り拓いたといえる本作をここで再び振り返っていきたい。 ■「血液袋」に「子産み女」……権力者やその側近以外はただの消費物とされる世界 核戦争により文明が崩壊し、荒廃した世界。元警官のマックスは、V8インターセプターに乗り、過去に起きた陰惨な出来事のフラッシュバックに悩まされながら、一人放浪を続けている。そんなマックスは、元軍人のイモータン・ジョーと呼ばれる男が水源を独占し独裁支配する砦「シタデル」の一団に捕らえられてしまう。 そこでは、全てがイモータン・ジョーの思うがままだ。環境保全の理念とは逆行する大排気量エンジンを信仰するカルト宗教をも指導するジョーは、自身を絶対の存在とする教えで人々を洗脳。その狂信者として、「ウォーボーイズ」と呼ばれる青年部隊がいる。生まれながら核の影響で長く生きられない病気に冒されている彼らは、神風特攻隊を連想させる「kamakrazee!」という言葉を叫び、ジョーのために戦いの中で死ぬことこそが誉れであり、生きるただ一つの理由だと信じこまされている。そしてマックスは、そんな一団のために新鮮な血を提供するだけの「血液袋」として扱われることになるのだ。 そんな男たち同様、女たちも苦しめられている。砦の内外から略取された健康で美形の女性たちは自分の意志とは関係なく、「子産み女」と呼ばれる、ジョーのハーレムの一員として生きることになり、ジョーの世継ぎとなる健康な子どもを産む義務を課される。2007年に日本で、少子化問題について語る政治家が女性を「産む機械」と表現したことが大きな問題となったが、まさにそういった役割のみを担わされているのだ。さらに子どもを産んだ後は、食料としてのミルクを生産するため、まるで乳牛のように搾乳され続け、家畜のような扱いを受けることになる。 権力者やその側近以外は、男も女もただの消費物となってしまっている世界。それは、まさに現実の多くの国の歴史や、現在の姿をカリカチュアライズしたものだといえよう。この地獄こそが、われわれの住む場所の問題を分かりやすく強調した縮図になっているのである。 ■男性が優先される社会に絶望する女性たちの心象風景を表すような、凄絶な追いかけっこ イモータン・ジョーは、水源を独占し、シタデルの下層民たちに、生き延びることができるかもしれないギリギリのわずかな水を与え、同時に威容を誇る鎧武者姿と、勇ましい言葉によって民衆を騙している。しかし、冒頭で観客に明かしているように、ジョーは実際にはただの弱々しい老人に過ぎない。その真実をよく知っているのは、最も彼と近いところで接することを余儀なくされている子産み女たちである。彼女たちはみなジョーの嘘や欺瞞に気づき、洗脳を解かれた状態にある。しかし幽閉されて外部との接触が絶たれ、貞操帯まで装着させられた彼女たちには、この地獄のような現実を変える術を持たない。 だが、彼女たちを救おうとする人物が一人いた。イモータン・ジョーの軍を統括する、女性の大隊長フュリオサである。なぜ彼女が子産み女を救うのかは、後でわかることになるのだが、ともあれ女たちは、「私たちは物じゃない」というメッセージを残して、フュリオサが運転する巨大なトレーラーに乗って砦の外へ脱出することに成功するのだ。 脱走に気づいたジョーは、追跡部隊を編成。さらには弾薬などを製造する「武器将軍」、狂気のビジネスマン「人食い男爵」も応援に駆けつけ、女たちのトレーラーを大挙して追いかけてくる。「欲望」、「暴力」、「金の力」。三者が象徴する、もはや概念化されたものが、女たちに「屈服せよ、役割を果たせ」と、ものすごい勢いで迫りくるのである。その凄絶な荒野の追いかけっこの構図は、現実の社会に生き、男性が優先される社会に絶望する女性たちの心象風景そのものではないだろうか。この見事な映像を撮っただけでも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、映画史に残る傑作だといえよう。 ■女性たちの「逃走」は、やがて「闘争」に反転する 女性たちが逃走する姿は、本作公開の2年前、大ヒットしたディズニーアニメーション『アナと雪の女王』(2013年)を代表するシーンにも似ている。女王エルサは、自分に課された重圧や責任から逃れ、自分らしく生きようと“Let It Go(なるようになれ)”と歌いながら雪山へ一人登ってゆく。これが、とくに女性の大きな支持を受けたのは、「与えられた役割から解放されてどこかへ行ってしまいたい」という願望を、ひとときだけ叶えてくれるという爆発的なカタルシスがあるためではないか。 一時期、日本のSNSにおいて、「女性だけの街があったらいいのに」というつぶやきが反響を呼んだこともあった。もし女性しか住んでいなければ、痴漢にも遭わないし、夜道を警戒しなくても済むし、差別的な出来事や格差をこれ以上味わわなくていいというのである。もちろん、これは現実的には難しい話だが、社会における女性の生きづらさを端的に表す言葉だとして、多くの女性の共感を集めた。それは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』における女たちの逃走に、非常に近い状況といえよう。このつぶやきに対して、男性と見られる大勢のアカウントの猛反発があったことも含めてである。 本作は、男くさいテイストを逆に利用することで、女性に襲いかかる現実を、生々しさをもって表現することに成功している。そして、その「逃走」は、劇中で「闘争」へと反転する。このダイナミックな考え方の変化が、そのまま大地を行くトレーラーの姿となって大迫力の映像で表現されるのだ。 ミラー監督は、本作の女性描写について、フェミニズムを扱う劇作家イヴ・エンスラーの助言を得ているという。一部の人々から、とかく「自由な表現を萎縮させる」と目の敵にされるフェミニズムやポリティカルコレクトネスだが、本作ではそれらが機能した結果、現実とのつながりが強固になることで、とてつもなく面白いものになっていることがわかるはずだ。 ■シャーリーズ・セロンが体現したフュリオサの戦う姿と苦悩。マックスは戦いに「肩を貸す」キャラクターに 地位を捨て、命をかけて女たちを救おうとするフュリオサを演じたのは、スター俳優シャーリーズ・セロン。国際的なモデルとして活躍するような美貌を誇りながら、役によって体重をコントロールし、映画によって見た目が大きく変わることもある。本作では、短髪で片腕が無く、頭部の半分を黒くペイントするというワイルドな容貌で、マックスと同様にアクションをこなす姿が印象的だ。それは、過酷な環境のなかで戦い抜く女性の姿を体現するものだ。 セロンはジェンダー問題にも関心が高く、近年、『タリーと私の秘密の時間』(2018年)、『スキャンダル』(2019年)、そして『オールド・ガード』(2020年)など、自身がプロデュースを務める主演作で、女性の生きづらさについての問題を扱っている。そんな彼女だからこそ、性別にとらわれない姿を見せながら、同時に女性としての苦悩を見事に表現するというはなれ業を達成し得たのではないだろうか。 そして、フュリオサの存在感にやや圧倒されているのが、『ダークナイト ライジング』『ヴェノム』のトム・ハーディ演じる、本作のマックスだ。マックスは、自分が逃げるためにフュリオサたちを利用するが、ニコラス・ホルト演じるウォーボーイのニュークスとともに、次第に彼女たちの戦いに積極的に加勢するようになっていく。 かつてメル・ギブソンが演じたマックスは、2作目、3作目となるに従って、伝説のヒーローそのものへと近づいていった。ギブソンはのちに映画監督となり、男性ヒーローという題材を、自身の作品で描き続けるようになっていく。その一方でギブソンは、DV疑惑や人種差別発言などを理由に、俳優としてハリウッドで活動するのが難しい状況にも追い込まれている。このような出来事は、本作の生まれ変わったマックス像に小さくない影響を及ぼしているはずである。 現代的な女性の苦難を描く本作において、男性ヒーローが女性たちを救うような英雄物語というのは、果たして成立するだろうか。その伝説はいつか、イモータン・ジョーのように汚れてしまうのではないか。本作のマックスは、先頭に立って伝説になるような男ではない。フュリオサの射撃のため、かがんで肩を貸すという本作の一場面が象徴するように、彼はただ彼女の戦いをサポートし、恋愛や地位なども望まず、去っていく存在なのだ。 本作は、やはり男の映画でもある。現代における「真の男」。それは、本作のマックスのように、何の見返りも期待せず、女性の戦いに肩を貸せる男なのではないだろうか。 (文/小野寺系)

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