権力者・道長に翻弄され続けた敦康親王
ところが、そんな暮らしも長くは続かなかった。御匣殿が一条天皇の子を身ごもったのだ。定子を心から愛していた一条天皇だったが、敦康親王ら子どもたちの姿を見に行く度に顔を合わせていた、母代わりの御匣殿に心惹かれるようになっていったらしい。御匣殿に、どこか定子の面影を見たのかもしれない。 権力者・藤原道長の地位を虎視眈々と狙っていた、定子の兄である藤原伊周は、敦康親王に続き、身内からまた皇子が生まれるのではないかと沸き立った。また男子が生まれれば、没落の一途にあった伊周ら中関白家再興の一助になる。しかし、御匣殿は出産前に死去。敦康親王は、再び母を亡くしてしまったことになる。定子が亡くなってから、わずか2年後のことだった。 こうして敦康親王は、中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし)に養われることとなった。彰子が道長の娘であるため、敦康親王は道長の庇護下に置かれたことになる。 その後、1010(寛弘7)年に元服。なお、同年におじの伊周が死去している。 翌1011(寛弘8)年に、一条天皇は三条天皇に譲位。この際、天皇は当然、第一皇子である敦康親王の立太子を望んだ。ところが、実際に皇太子になったのは、彰子の子である敦成(あつひら)親王の方だった。我が子が皇太子となったのにもかかわらず、彰子は父・道長の強引な手腕に対し、怒りを隠さなかったとする逸話が残る(『栄花物語』)。敦康親王に対する彰子の愛情の深さが伝わってくる。 その対価という意味合いもあったのだろう、敦康親王は一品准三宮(いっぽんじゅさんぐう)という高い地位を与えられた。 1016(長和5)年、道長の圧迫もあって三条天皇が退き、敦成親王が後一条(ごいちじょう)天皇として即位。この時、皇太子となったのは三条天皇の第一皇子である敦明(あつあきら)親王だった。翌1017(寛仁元)年に敦明親王が皇太子を辞退すると、彰子は、今度こそ敦康親王の立太子を、と希望したらしい。しかし、これも叶うことはなかった。 1018(寛仁2)年12月、敦康親王はこの世を去る。享年20。その胸の内を知る術はないが、早すぎる死だったことは間違いない。
小野 雅彦