消えた砂利鉄。1日わずか4往復、終着駅の利用者135人…「西寒川支線」の歴史と廃線跡
西寒川支線は、国鉄(現・JR)相模線(茅ケ崎-橋本間33.3km)の途中駅である寒川駅と西寒川駅の間1.5kmを結び、終点の西寒川駅を発着する旅客列車は、廃線当時、1日にわずか4往復という非常に細々とした支線だった。 【画像】映画『スタンド・バイ・ミー』のように線路上を堂々と歩くことができる なぜ、このような支線が誕生したのか。以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜著 2024年10月神奈川新聞社刊)の内容を一部抜粋し、西寒川支線の歴史をひも解いてみよう。
◆西寒川支線が運んだ物とは?
「その日は土曜日。休日出勤から帰宅すると、警笛を鳴らしながら列車が近づいてくる音が聞こえた。急いでカメラを手にして外に出ると、鉄道ファンが線路沿いを埋め尽くす中、【さよなら運転記念ʼ84・3・31寒川・西寒川間】というヘッドマークを付けた朱色の気動車が、近づいてくるところだった」 寒川町観光ボランティアガイドの森和彦さんは懐かしそうに、今から約40年前、西寒川支線(通称)のラストランとなった1984(昭和59)年3月31日の様子を振り返る。上の写真は、そのときに森さんが、家の近所で撮影したものだ。 相模線は、1921(大正10)年9月に民営鉄道の「相模鉄道」として茅ケ崎-寒川間が開通したのが始まりで、2021(令和3)年9月に開業100周年を迎えた。設立趣意書には、当時、年間で「四十七万余人」が訪れた大山阿夫利(あふり)神社の参詣客や、沿線一帯の穀類、繭糸(けんし)、木材などの輸送に加え、相模川で採取される「砂利」の輸送をうたっている。 明治末から大正の初めにかけては、「砂利の需要が喚起された」(「砂利の近代史-相模川砂利を中心として(下)-」内海孝著)時代。 鉄道や道路の整備、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用、さらに「浅野セメント」の浅野総一郎が主導し、鶴見・川崎地域の臨海部を埋め立て、大規模な工業地帯を造成する動き(浅野埋立)などもあり、大量の砂利が使われた。 相模鉄道は、こうした背景から茅ケ崎-寒川間の本線開通と同時に川寒川支線(寒川-川寒川間1.4km)、翌1922 (大正11)年5月には、後に西寒川支線となる四之宮支線(寒川-四之宮間、本稿では西寒川支線で統一する)という2本の砂利採取専用線を敷設し、川砂利の輸送を開始した。 こうして、「砂利鉄」とも呼ばれる相模線の歴史が始まったのである。 川寒川支線は1931(昭和6)年11月に廃止になっている。 廃止の理由について前出の森さんは、「明確に書かれた資料は今のところ見つかっていないが、昭和8年に日本初の広域水道となる神奈川県営水道が創設され、昭和11年には給水が開始された。おそらく川寒川の砂利採取場所と、取水場所が重なったのではないかと推測している」と話す。 一方の西寒川支線は、寒川と四之宮の間にあった貨物駅「東河原駅」(後の西寒川駅)付近に昭和産業の一之宮工場が招致されると、1939(昭和14)年10月に東河原駅を昭和産業駅と改称し、1940(昭和15)年4月以降、通勤客を運ぶために旅客営業を開始した。 昭和産業一之宮工場は、1942(昭和17)年4月頃、海軍によって買収。1943(昭和18)年5月に平塚にあった海軍技術研究所の化学研究部を母体として相模海軍工廠(こうしょう)が同所に開設され、毒ガス、防毒マスク等を製造した。 なお、海軍による工場買収後の1942(昭和17)年10月、昭和産業駅は四之宮口駅と改称されている。