『十一人の賊軍』で舞台となった新発田城、ありきたりな「名城」などという評価ではもったいない「魅力」
(歴史ライター:西股 総生) ■ 二重櫓と櫓門とが一つずつ現存 先ごろ公開された映画『十一人の賊軍』で舞台となった新発田城は、日本城郭協会による「日本100名城」にも選定されている。たしかに新発田城の本丸には、二重櫓と櫓門とが一つずつ現存しているし、三重櫓と二重櫓も一つずつ復元されているから、なかなか城らしい景観を楽しむことができる。 【写真】本丸の表門と二重櫓は新潟県内では貴重な現存建物。二重櫓は本丸の別の場所にあったものだが、旧鉄炮櫓の場所に移築されている けれども、映画に登場した件はともかくとして、城そのものとして見た場合、新発田城が本当に名城だとは、筆者にはあまり思えないのだ。石垣造りなのは本丸だけで、二ノ丸以下は土塁造りだし、ほとんど残っていない。肝心の本丸も、石垣は低いし堀幅も小さい。近世城郭としては、はっきりいって物足りないのである。 この城が名城に選ばれているのは、新潟県内で櫓や門などの城郭建築が現存する、唯一の近世城郭だからだろう。名城モノの企画では、地域的なバランスを取って城を選定するのが常だからだ。 新発田城を築いたのは溝口秀勝という武将だが、よほどの戦国マニアでないかぎり彼の名前は知らないだろう。もともと尾張の土豪で丹羽長秀に仕え、長秀の死後は豊臣秀吉から直接、所領を宛がわれるようになったらしい。 そのうち堀秀政の与力大名となって、堀家の越後入部にくっついて6万石で新発田に封じられた。秀勝の跡を継いだ宣勝は弟に1万石を分知したので、以後新発田藩は5万石をもって幕末まで続くこととなる。 城の方は、秀勝・宣勝の2代にわたって築かれたものの、寛文8年(1668)に大火で全焼してしまい、再建・修復された。城全体のプランニングは、おそらく秀勝の手になるのだろうが、現在残る石垣や建物は寛文の再建によるものだ。 と、いった具合に見てくると、納得できる。城全体の規模も、石垣や堀のサイズ感も、5万石の外様大名としては分相応のものなのだ。これ以上大きな城を築いても、5万石の動員兵力では守り切れないだろうし、石垣や堀を大きくしたくても財政的に厳しい。 そのつもりで改めて見直すと、城のスケール感というかサイズ感が、何となく赤穂城(浅野家5万3千石)に似ている。溝口家代々の当主たちは、きわめて現実的な選択をしたのだ。だからこそ彼らは、出身地の尾張からも中央からも遠く離れた下越の地で、幕末まで生き抜くことができたのだろう。 そんなふうに考えると、この城は何だか、いじましいように思える。本丸西面の石垣ラインに連続して折れを加えているあたりなんか、豊臣系大名の意地みたいなものが感じられるではないか(トップの写真参照)。「名城」などという、ありきたりなワードでくくってしまったのでは、このいじましさが見えなくなってしまう。 それにこの城の石垣は、ていねいな切り込みハギ布積みで、ボリュームはないがなかなか美しい。櫓の外壁下半分を海鼠壁(なまこかべ)としているのも寒冷地仕様ではあるのだが、センスよく見える。隅櫓の窓を小さく押さえたり、櫓門に石落としを忍ばせているあたりにも、平時にあって乱を忘れぬ心構えが感じられるし、そうした武的要素が無理なくデザインとして収まっているのもよい。 そうそう、本丸の西北隅に建つ三重櫓は、古写真に基づいて復元されたもので、一見普通の櫓っぽいが、頂部の棟がT字型になっていて鯱が3つの載っているという、変わり種だ。このあたりにも、さりげないながら強烈な自己主張が込められている。 豊臣大名としては地味な、たった5万石の溝口家、どっこい北越の地でしたたかに生き延びています……という感じが、城からひしひしと伝わってくる。「名城」などという、ありきたりな評価でくくるには、あまりにももったいない、魅力的な城なのである。
西股 総生