「観る」「読む」、そして「想う」。プロレスというジャンルを考える『忘れじの外国人レスラー伝』
カール・ゴッチ、ザ・デストロイヤー、アンドレ・ザ・ジャイアント、ビル・ロビンソン、ダイナマイト・キッド、テリー・ゴーディ、スティーブ・ウィリアムス、バンバン・ビガロ、ビッグバン・ベイダー、ロード・ウォリアー・ホーク――。 【画像】若き日の著者とロード・ウォリアーズ 昭和から平成の前半にかけて活躍し、今はもう永遠にリング上での姿を見ることが叶わない伝説の外国人レスラー10人。 新刊『忘れじの外国人レスラー伝』(集英社新書/斎藤文彦箸)では、今だから明かせるオフ・ザ・リングでの取材秘話を交え、彼らの黄金時代はもちろんのこと、知られざる晩年、最期までの「光と影」を綴っています。 ベテランのプロレスライターであり、名コラムニストでもある著者に、ジャンルとしてのプロレスという切り口から、本書の内容を紹介してもらいました。(※この記事は、『青春と読書』12月号からの転載になります) * * * プロレスは"読むスポーツ"なのかもしれない。もっとわかりやすくいうと、プロレスファンにとってプロレスを"観る"ことと"読む"ことはちょうど同じくらいのウエートを占める。ぼくはずっとそう考えてきた。 野球やサッカー、あるいはテニスやゴルフといった人気スポーツとプロレスのいちばん大きなちがいは、プロレスには"やる"、つまりそれを好きな人たちが自分でもプレーする――学生プロレスというジャンルもあることはあるけれど――という行為が存在しないことだ。プロレスとアマチュアレスリングも根本的にはまったく異なる身体運動で、プロレスだけはあくまでもスペクテーター(観戦)スポーツである。 プロレスが純粋なスポーツ競技であるか、演劇的な部分を含むエンターテインメントであるかというプリミティブな議論はすでに20世紀に終わっている。本場アメリカでは、プロレスはスポーツであると同時にエンターテインメントであるという共通の理解と定義づけが定着し、四半世紀ほど前から(とくにメディアでは)プロレスをカテゴライズする単語として"スポーツ・エンターテインメント"なる表現がよく使われている。 スポーツであると同時にエンターテインメントだから、レスリングそのものの強さやアスリートとしての能力をいくら論じても、プロレスについても、プロレスラーについても、なにもわかったことにはならない。 ■宗教的儀式のようだったプロレスの洗礼 この度上梓した『忘れじの外国人レスラー伝』のプロローグでもふれているが、ぼくにとってプロレスラーはヒーローである。ヒーローはだいたいの場合において歴史上の英雄だったり人気者だったり物語の主人公だったりする。プロレスラーは実在の人物ではあるけれど、リング上で起こることや観客の前でディスプレイされる人格についてはフィクションであったり架空のキャラクターであったりすることもある。試合をしているときだけがプロレスラーになる時間というわけではなくて、ふだん着で街を歩いているときも、食事をしているときも、それこそ眠っているときも、プロレスラーはプロレスラーでありつづける。 ぼくは3歳からずっとプロレスを観つづけている。母方の祖父母の家に泊まりにいったとき、モノクロのテレビで"金曜夜8時"のプロレス中継を目撃したのがはじまりだった。明治生まれの祖父はテレビの前に正座して真面目な顔でブラウン管をにらんでいた。プロレスの時間になると、近所のおじさんたちも家に上がってきて、祖父といっしょにテレビの前に集まっていた。ぼくも祖父のすぐよこに座った。いまになってみると、それはまるでなにかの儀式のようだった。 生まれて初めて目にしたプロレスの試合は日本人3選手と外国人3選手による6人タッグマッチで、若かりし日のジャイアント馬場がそれほど大きくないテレビの画面のなかで大暴れしていたことだけは記憶しているけれど、ほかのメンバーがだれであったかがどうしても思い出せない。そんな宗教的な儀式のようなワンシーンを2回ほど体験した記憶があるから、母の実家には2週間くらい泊まっていたのだろう。ぼくは、ウルトラマンや仮面ライダーに出逢うよりも前に、プロレスの洗礼を受けてしまったのだった。